柳生宗崇の手によって奪われた太平を取り戻すべく手を組んだ龍閃組と鬼道衆は、いよいよ明朝、大志を以て富士に出立しようとしていた。
今回ばかりは無事生きて還れる保証もない旅だ。各々思い思いに今日という日を過ごし、ある者は家族に、ある者は友にそれぞれ別れを告げているのだろう。
例え自らがどのような異能を持っていようと、近しい相手を大切に想う気持ちは至って俗的であり、だからこそ彼等は集い、だからこそそこは暖かく愛おしいのだと、いつからか涼浬はそう思うようになっていた。
そして、それを感じさせてくれる最たる者も、また同じように今日という日を過ごしているのだろうか。
――彼の人は、今頃どこで何をしているのだろう。
暫く店を閉めるからと、兄に頼まれた使いを済ませ如月骨董品店に戻る道すがら、涼浬はふと曇った空を見上げる。
もうすっかり見慣れてしまいそうな鈍色の空は今日はまた一段と暗く、その重苦しさはもう幾らもこの空の下が耐えうる余裕がない事を示している様にも思える。
「…無力な物だ……」
睨んでも仕方無いのに、そうせずにはいられない天に苦々しく呟いて、涼浬は拳を握った。
旅立ちはいよいよ明朝。無事に還れるにしろ還れないにしろ、こうして無力さを噛み締める日々もそれでもう終わるのだ。
――否。
そこまで思って涼浬は空から視線を外すと、緩く開いた掌を見つめる。そして目を閉じればすぐに思い出せる温もりをもう一度握り絞めると、眉間を寄せた。
どこか生臭い風は不穏な気配ばかりを残し、涼浬の短い髪を散らして上空へと吸い込まれていった。
「――只今戻りました」
「…ああ、涼浬。今帰ったのか」
店に戻り戸を潜ると、丁度店の土間に降り華茶碗を棚に戻そうとしていた奈涸が振り返り、目を丸くすると何やらあらぬ方を向いて眉間を寄せる。
「兄上?」
「いや…、つい先刻まで龍君が来ていてね」
「――龍斗さんが?」
兄の口から予想外に出た名前に涼浬はどきりとすると、踵を返して戸から上体だけを外に出して辺りを見渡す。
「…その様子だと会わなかったようだな。だがまぁ特に用がある訳でもなかったみたいだし、別に構わないんだが一応な」
「そう…ですか…」
こんな日だからだろうか、そう聞いても何か名残惜しく、もうとっくに有る筈の無い姿を探して、涼浬はまだ視線をさ迷わせるのを止められない。
何をしているのだろう、と耽っていた時に彼がここにいたのだと思うと、例え自分に会いに来た訳でなくとも、一目その姿を見ておきたかった。
「…彼がそんなに気になるか?」
しかしそんな涼浬の背に、ふと低めた声が掛かる。
「…え?」
「龍君がそんなに気になるか、と聞いている」
唐突で上手く聞き取れず振り返った涼浬に、奈涸はひた、と視線を定める。
「兄上…?」
「近頃のお前を見ていると、時たまはっとさせられる。なんと普通の娘だろう、と」
「…!?」
「…かつてのお前からは、些かも感じる事が無かったのに」
「そ、そんな…」
兄の真剣な声音の真意が計れず、狼狽した涼浬は声を上擦らせる。
「私は《忍》です…!幾ら兄上と言えど突然その様な事っ…、そう…私に何か至らない所がありましたか…?!」
計れずとも、少なくとも涼浬にはいつだって《忍》という自覚があり、昼の大途を袖を振って歩くよりは夜道の陰を走る方が我であると思っている。
泥臭さとは無縁の華やかな町娘が羨ましいとも感じた事はないし、何よりも使命に誇りを持っている涼浬にとっては兄のその言葉は心外極まりなく、自身への侮辱にさえも感じた。
かつての溝も埋まり、分かり合えて来たと感じていたのはこちらだけだったのだろうか。
だが、奈涸は静かに首を振ると、僅かに瞳を和らげて微笑する。
「いいや、寧ろ俺はそれを嬉しく思っているのだ、涼浬」
「え…?」
「《忍》のお前ではなく、《ただの娘》としてのお前。誰の意思でもないお前自身の想い。兄としてこれ程嬉しい事はない」
「――待って…ください、兄上…」
涼浬にとってはまるで言葉と表情が一致しない奈涸に、軽く混乱して一歩後退さる。
「一体先刻から何を仰りたいのです?私は私です、《飛水》の涼浬です。《ただの娘》とは一体…」
目の前の、自身の家族である筈の男は、本当に一体何を言おうとしているのだろうか。
「分からないのか?本当に。自己は自己としながら飛水という名で自身を飾る。その矛盾が」
そんな狼狽する涼浬に奈涸は真剣な表情で一歩、また一歩と近付いて行き、涼浬はそれに合わせる様に更に後退して行く。
「矛盾…?一体何が矛盾です。《飛水の涼浬》が私自身なのに…――」
だが、すぐ背後にはもう空間が無くなり木戸に背を打つと、その怯えた顔の横を通り抜けた腕がかた、と音を立てて木戸に手を着く。
「ではお前が彼を追うのは、飛水の忍だからか?」
「彼…?」
近付く兄の顔は形容し難い迫力があり、涼浬は萎縮する様に面を下げるが、奈涸はそれを許さず手で顔を上げさせ、瞳を見据える。
「そんな訳はないだろう。涼浬、今一度よく考えてみろ。緋勇龍斗、己は己でしかない事をよく知る彼が、他の誰でもないお前自身にとってどんな存在か」
「兄…上…」
「恐れるな妹よ。構わないのだ、お前はもう少し思うがままに生きてみろ。きっと、その先にはそれを受け入れてくれる光が必ず在るのだから―――」
「………」
混乱した様子のまま、少し出て来ます、と店を出て行った涼浬を無言で見送り、奈涸は一つ息を吐くと今しがた手を着いていた木戸に、今度は背を預けて腕を組む。
「兄としては複雑だが、これくらいは…な…」
そして薄暗い店内に向かって誰にともなく呟き、ほんの少し前、ここに訪れていた客人の姿を思い浮かべた。
その客は特に何かを買って行った訳ではなかったが、店の商品を何の気無しに物色しつつ、独り言のように奈涸に話し掛けて来たのだ。
「…涼浬に似合うかな」
「――涼浬?」
帳台の前に座りながら華茶碗を磨いていた奈涸は、呟かれた名前に怪訝そうに顔を上げると、その客を視界に入れた。
紅の入った貝を摘みながら、それに誰を思い浮かべているのか、惚けた目をするその客に、奈涸は益々眉を顰めた。
「…あいつは紅を差したりはしないぞ」
「だからいいんじゃないか。あんまりにも飾り気が無さ過ぎるからなぁ、涼浬は」
「ずっと忍として生きて来た。その是非はともかく仕方なかろう」
「うん。涼浬の魅力は外見の美しさじゃないさ」
でも勿論見た目も可愛いけどな、と貝を爪弾きながらはにかむ男を、呆れた気分で奈涸は眺めた。いつもなら大事な妹の事とあらば物の一つも投げ付けたくなる筈だが、不思議と今日はそんな気分にはならなかった。
「君は…妹を好いているのか?」
「…恐い兄上が許してくれるなら、今すぐ攫って行きたいくらいにな」
「冗談だろう。そもそもあいつがそんな事を望むものか」
「だから攻め倦ねているんじゃないか。本当に誰かさんは随分鈍感娘に育ててくれたよ」
実の兄を前によくもここまで遠慮なく言える物だ、と奈涸は内心面白くないが、それくらの気概が無くては寧ろ困ると言う物か。
「ふん、必要の無い事だったからな。飛水の娘は年頃になれば長に決められた同じ飛水の者と結婚させられる」
「へぇ、俺にとっちゃ随分な悪習だな。じゃあお前も?」
「俺は優秀だったからな、相応しい相手が見付からなかったのもあるが、話が出る度逃げ回っていた」
そしてそれも、妹を排除しようと動く里の判断材料の一つになったのだろうと思うと未だ苦々しく、口調は自然と吐き捨てる様になる。
「そんな下らない里で育った娘だ。幾ら君でもあれを捕まえるのは容易ではないぞ」
「…捕まえてもいいのか?」
「好きにすればいい。今となっては俺が願うのはあいつの幸せだけだ。…少なくとも、君ならあいつを泣かせるような真似だけはしないだろう」
妹を大切に思う気持ちは今も昔も、そしてこれからも変わる事はないだろう。だからこそ、奈涸はその幸せだけを強く願う。
任務の帰り、里の見張り台から誰よりも早く一目散に駆け下りて来てくれたあの笑顔は、今もまだ少し遠く、だが確実にまた見え始めている。それを取り戻してくれたのは、他ならぬこの彼のお陰なのだから。
「何か調子狂うな。くすぐったいや」
少し居心地悪そうに頭を掻く相手に微かに笑みも零れる。
「こんな日だからかもしれないな。生きて還れるか分からない明日だ、俺も後悔は…」
「――生きるぞ」
「え?」
今日という日を思い、まるでしみじみとしてしまう奈涸だが、それを遮って強い声が掛かると、はっ、として顔を上げた。
どこか怒ったような、真剣な眼差しがそこにはあった。
「生きて還るんだよ、俺達は必ず」
「――…」
「そうして、願うものをこの手に掴むんだ。自分の力で。涼浬だけじゃない、俺の大切な皆の幸せを、俺は見届けたいから―――」
そう言って握った拳を目の前に掲げてみせた、あの頼もしい光が宿る瞳を奈涸は忘れられない。
明日への不安も恐れも全てを打ち消す、あれこそ希望の光という物なのだろう。
「……ふ、俺らしくもない…」
柄ではないのに思わずそんな事を思ってしまう程、気付けば彼を信頼している自分に気付き、奈涸は自嘲の笑みを零すと、開いたままの戸口に向かって呟いた。
「考えろ、妹よ。考えねば二度と失うぞ。あれは大きい男だ。何であれ、お前一人の想いくらいは容易く抱えてくれよう。…涼浬、お前は何を望む―――?」
――分からない。
ふらふらと当て所なく町を彷徨いながら、涼浬は途方に暮れる。
緋勇龍斗が己にとってどういう存在かなど、考えるまでもなく答えは分かっていたつもりだった。頼もしく、信じる事に不安は無い欠け替えのない人だと。
確かに奈涸の言う様に同じ公儀御密だと接していた時期はあったが、もうそんな時期はとうに過ぎて、今はただ仲間として、一人の人間として尊敬している。
だが恐らく、奈涸が言いたいのはそういう事ではないのだろう。
――どうしてだ?どうしてそんなに気になったんだ?
ふと、いつか龍斗に聞かれた問いが蘇る。
あの時は答えられずに涼浬は逃げてしまった。
――俺の勘違いじゃなかったら涼浬、もしかして…お前は、俺を…。
そしてあの時も答えられなかった。
ただ頬が熱を持つばかりで、それが思考を遮り焦りばかりを生んで、龍斗を遠退けた。
――彼がそんなに気になるか?
気になる。
《飛水》だとか《公儀御密》だとかそんな事ではなく、ただの《涼浬》として気になる。
考えていた。先程も無意識の内に龍斗の事を想っていた。
信頼、いや、それ以上の何かが確かにあって、だから遠退けた。分からないそれがとても恐く感じて、まるで己が己で無くなってしまいそうな気さえしたから。
奈涸は気付けと言う。だが、それはそんな危険を侵してまで本当に必要な事なのだろうか。既に今も十分自分らしさは失われているのに、これ以上失えば、本当に《忍》であるという自身の存在意義さえ無くなってしまうのではないか。
「龍斗さん…」
思考の溝にすっかり嵌まり、涼浬は深く深く俯いて助けを呼ぶ様に呟いた。その呟いた相手こそ、今頭を悩ます相手だと言うのに。
「――ん、何だ?」
不意に、俯けた頭にぽん、と暖かい感触が触れる。
余りにも覚えがあるその温もりと声に涼浬は目を見開くと、はっ、と顔を上げた。
信じられない光景が眼前に広がる。
「…ひどい顔だな。どうした?」
「っ―――…」
目の前で和らいだ暖かい瞳は、涼浬の何かを堪えて固い表情を映し出す。
「涼浬?」
悪戯っぽく頬を軽くつねられて、その窺う様に小さく首を傾げる仕種が、隙だらけの涼浬の心に簡単に入り込んで、じんわりと熱を生む。
「どう…して…」
にも関わらず、つねられたまま絞り出した言葉はどこか攻める調子になってしまった。
「どうしてって…。俺も驚いたんだけどな。ここ、小石川だぞ?」
「えっ?」
目をぱちくりさせる龍斗に、涼浬も驚いて辺りを見渡す。
気付けば見覚えのある町並みはすっかり消え、馴染みない家屋や看板が辺りを囲んでいた。
一体いつの間に、と絶句するしかない涼浬の前方から、押し殺した笑いが聞こえて来る。
「まさかぼんやりしたままここまで来たってのか?お前の店からどれだけ距離あると思ってるんだよ。凄過ぎ」
くっくっく、と口許を抑えながら肩を震わす龍斗に、涼浬は羞恥を覚えて目を逸らす。返す言葉も無かった。
龍斗は尚も笑いながら、ぽんぽん、と頭を叩いて来る。
「本当に面白いなぁ涼浬は。可愛くて好きだぞ、お前のそういう所」
「―――…?!」
だが、続いてしみじみと言われたその言葉こそ、涼浬を狼狽させるに十分だった。
弾かれた様に龍斗を見返し、まじまじと凝視してしまう。
今龍斗が何を言ったのか、涼浬の思考が激しく吟味咀嚼し、駆け巡る。
「…え?」
その少し鬼気迫る気配に、龍斗は少し怯える様に手を引っ込め、軽く後退さる。
「す、涼浬…さん…?」
「――どう、して……」
そして思考の波が過ぎれば、後はただ想いだけが溢れて泣き出しそうになってしまう。
そう、怯えられるのが悲しい訳ではなく、からかわれるのが悔しい訳でもなく。
「どうして…貴方という人は……」
また簡単に答えを言われてしまった、その事が情けなくて、気付いてしまった事実にどうしていいか分からなくて。
涼浬は渇いた笑いから戸惑いに変わっていく表情を見つめ、その着物の裾を握る。
「涼…浬…?」
「―――……」
そう、気付いてしまった。ずっと悩んでいた、龍斗に向ける気持ちのその先を。
涼浬は龍斗のじっと見返す視線を受け止め切れず、深く俯く。
別に、なにもこれまで無知で過ごして来た訳ではない。ちゃんとそういう事もあるのだと知っていたのに、どうして今までこんなにも鈍くいられたのか不思議な程、それが自身の身にも起こりうる事だとは微塵も思っていなかった。それに《男女の情》というものは涼浬にとっては今まで余りにも無縁の世界で、寧ろ煩わしく、それに囚われる者は滑稽だと思う程にどうでもいい事柄であったから尚更だった。
だが、今頬に集まる熱は何もその事実への羞恥だけではなく、溢れ出した想いに依るものである事は明白で。
「…本当にどうした?大丈夫か?」
そっと後頭に添えられる手よりも熱い顔を見られたくなくて、涼浬はいっそこのまま抱き寄せてくれればいいのに、と思う。
「しんどいなら店まで送るぞ?」
「大…丈夫です…。そんな事では…ないんです…」
「…?」
これが《恋慕》という物なのだろうか。一度知るだけでこんな風に心配されてしまう程病的なこれが、《飛水の涼浬》を《ただの娘》にしてしまったのか。
困惑と躊躇い、それ以上に大きい胸の鼓動に涼浬はたじろぐと、龍斗から離れて背を向けた。
「涼浬…?」
「…明日、いよいよ出発ですね…」
「え?あ、ああ…」
「お護り、します。必ず」
顔を少しだけ振り向かせて、とにかく今言えるだけの言葉を告げると、涼浬はその場から去ろうと足を踏み出した。
「――待て」
「―――…?!」
だが直ぐさま後ろから追い付いて来た手に手を掴まれると、ぐいっと引っ張られ反対方向を向かされる。
龍斗は咄嗟に振り解こうとする涼浬の手を強く握ると、ふわりと笑った。
「馬鹿。それは俺の科白だろ」
「っ…」
「…今日、会えて良かったよ。俺だって、それを伝えたかったんだ―――」
辺りには夜の帳が下りて久しい。人の声も虫の声も聞こえない店の中庭にはやや小さい桜木が一本あったが、今は葉を落として寒々しい姿を露呈している。
涼浬は頼りない蝋燭の明かりだけを共に、縁側に腰掛けてそんな物寂しい庭に向かっていた。
「龍斗さん…」
どこか物憂げな気分から零れる声はやはり切なげで、けれど少しの甘さも伴い、それが自身から発せられた音だと思うと、一人また頬が熱くなってしまう。
明日からの事を思うとそれではいけないと思うが、昼間の事を思い返せばつい気分はふわふわとして落ち着かない。
「けれど、護らなくては…」
頭を緩く振って邪念を祓い、言い聞かせる様に呟くと涼浬は庭から視線を外し、緩く開いた掌を見つめる。そして目を閉じればすぐに思い出せる温もりを握り絞めると、眉間を寄せた。
――還らなければならない。還さなければならない、必ず。
涼浬にとって、彼だけは例えこの命に代えてもこの浮世に還さなければ、この世はまた闇と同じだと思うから。
「貴方を必ずお護りします、龍斗さん――」
掌の内にはもう何の手応えも無かったが、確かにそこに残る強い熱は、明日に向ける新たな決意を生んだ。
――そして、最後に願わくば、自らも共にそこにあらん事を。
切なる願いは、ただ一人胸の内へ。
終
…で、雪山イベントへ続く、と。
ちょっと自己解釈が激しいですが、原作との辻褄合わせって難しいなぁ(笑)
多分結構かけ離れてると思うけど、まぁ頑張ったさ…。
そして涼浬さんに遂にようやくFAを見つけさせましたよ!(`・∀・´)
しかし随分かかったなオイw鈍い人こそ気付けばきっと早いってもんですよ。そして兄亀公認になったんですから、もう後はEDまで突っ走るだけですねw
だからこの二人も本当に一段落。
正直次は何をするかもうマジ未定です☆
…てあ、剣風がまだ未完でした(;^ω^)
[9回]
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