――龍斗…龍斗…。
頭に声が響く。
優しく、こっちに来て、と呼ぶ声が。
「――…」
龍斗はふ、と目を覚ます。目の前に広がるいつもと違う見慣れないようで見慣れた天井がどこの物かを思い出すのにそう時間は掛からず、龍斗は苦笑を溢すとむくりと上体を起こした。頭上に置かれた行灯の火は微かに暖かいが、煎餅の様に薄いなりにももっと暖かった布団から身を出すと、やはり室内は寒く、龍斗は一つ身震いすると横から聞こえる鼾にそちらを見た。
少し距離を置いて並べられているもう一組の布団には、枕から頭を落とした風祭澳継がすっぽりと丸まっている。何で一緒に寝なきゃならないんだ、とごねまくった挙げ句、天戒や桔梗に諌められ渋々場所を貸してくれた風祭だが、かつては喧嘩をしながらも毎日この部屋で布団を並べていたものだった。
「…本当、懐かしいな…」
今日鬼哭村に訪れて以来、色々な事や物が懐かし過ぎて、龍斗は正直参っていた。自分がいた痕跡はどこにも無いのに、頭の中ではあれもこれもと思い出が蘇ってしまい、懐かしいやら寂しいやら中々複雑で疲れてしまうのだ。だがそれでもまたこうさせて貰っているだけ有り難いというものだが。
龍斗は視線を風祭から外すと、半纏を羽織ってから布団を出て襖を開ける。そして縁側に出た所で目の前の庭に人影を見付け、足を止めた。
「………龍斗」
江戸の町でも稀にも見ない、後光が射した様な金色の髪と異国の衣装。常に閉じられた瞳は一体何色をしているのだろうか。紡がれた夢のような透明で澄んだ声も合わせて、今この闇夜の中でも見紛う事のないその立ち姿は、いつかの様に星空の下で見れば更に美しかったか。
「――やぁ、比良坂…」
龍斗は微笑を浮かべると、風祭を起こさないように後ろ手に襖を閉める。
彼女は龍斗の極めて重要な運命の転機に深く関わり、きっと龍斗が抱く喪失の外側の存在。
「龍斗…」
「移動、しようか…」
目が見えなくても一人で歩く事は出来る。けれど懐かしさか嬉しさか、ただでさえ星も無く暗い寒い夜、お互いの温もりを共有するように龍斗は比良坂の手を引き、九角邸から夜氏之杜へ向かった。
「…寒くないか?」
夜氏之杜に程よく踏み込んだ所で、龍斗は手を放すと半纏を脱ぐ。比良坂の肩に掛けてやろうと腕を回すが、比良坂はそれをやんわり拒否すると、逆に半纏を奪い龍斗の肩に戻す。そしてそのまま龍斗の頬に腕を伸ばし、両手でそっと包み込んで顔を引き寄せた。龍斗も応じて目線の高さを合わせると、額を合わせる。
「龍斗…」
龍斗の存在を確かめるように比良坂は両手で顔を探る。龍斗は目を閉じてされるがままに任せていたが、頃合いを見て手に手を重ねた。
「久し振り…でいいんだよな?」
「私の事…怒っていますか?」
「いいや、感謝しているよ」
龍斗は重ねた手を握って頬から放す。
温もりに包まれていた頬は冷たい外気に触れ、あっという間に熱を失っていく。
「…やっぱり、比良坂の仕業だったんだな」
苦笑を浮かべる龍斗に、比良坂もおっとりと笑む。
「でも、来てくれた…、ここまで…」
「…うん。確かめたかったんだよ。俺のして来た事が、これからする事が意味のある事なのか」
「意味は…あった?」
「……―――」
訪ねられて、龍斗は一寸口をつぐむ。
――春の嵐を、思い出す。
冷たく暗い雨の中、赤褐色の飛沫が目の前で散り、黒と白の静寂の後、光を見ればそこには暖かく明るい陽差しの中、淡い桃色が舞っていた。
そこで出会ったのは、妖艶なあの彼女ではなく菩薩眼の女だった。
「――…いや、正直まだ分からない」
龍斗は蘇る過ぎし日に懐かしく目を細める。
「けれど無駄だとは思ってないよ。大切な仲間が増えて、そしてまたこうして皆にも会えた」
「………」
「――そう、大切な…」
今もあの事が良かったとは決して思わない。けれど、それがあったからこそ出会えた人達。出会えた彼女。
大切な、大切な人。
「龍斗…」
そんな特別な人を思う心を敏感に感じ取ったのだろう比良坂は、少し眉を下げて笑む。
「大切な人が…出来たんですね…」
「…ああ」
今こうして迷い無くいれるのも、実は彼女の存在に依る所が大きい。龍斗ははっきりと涼浬を思い浮かべる。
龍閃組に属し居心地の良さを感じながらも、未練や寂しさから何故自分一人だけなのだ、と心のどこかで自暴自棄になっていたあの頃、彼女は目の前に現れた。
自分よりもずっと思い詰めた瞳と、感情は抑えるくせにまるで生き急ぐような姿勢。どこか自分と似ているような気がして放っておけなかった。そうしていつの間にか彼女を見守る事が自分の慰めになり、彼女を通して自分を見つめるようになった。そしてそれ以上に、愛するようにもなったのだ。
「今は、幸せですか?」
小首を傾げて訊ねられればはっきりと頷けるが、しかしそれを感じていいのはまだ当分先だろう。
星明かりもない空の暗さは、木々の隙間と夜空の境界さえも塗り潰し、頭上にはただのっぺりと暗闇だけが広がっている。
「この空が晴れれば、もっと幸せだ」
だから今は自分の感情は二の次だ。それよりもまずはこの闇を取り払わなければ、いずれその先さえ二度と見れなくなる。
「…晴れるまで、闘い続ける?」
「守りたいものや大切なものが沢山あるからな」
「また、傷付いても?」
「誰も傷付かない闘いなんて無いだろう?」
龍斗は心配するな、と比良坂の頭をぽんぽんと叩くが、澄んだ声は少し曇って、不安げに龍斗の手を掴んで来る。
「龍斗、やっぱり貴方は変わらない…」
「比良坂…?」
「私はそれが嬉しいけれど、同時に不安でもあるんです…」
比良坂は掴んだその手を持ち上げ、頬を寄せる。
「くれぐれも気を付けて下さい、龍斗…。もしまた何かあっても、一度貴方の輪廻の輪を曲げてしまった私には、もう貴方を助ける事が出来ないから…」
「………」
「貴方は絶対失ってはならない皆の希望の光。どうか、それを忘れないで…」
暗闇でも分かる白い肌に浮かぶ繊細な睫は細かく震え、親指でそっとその目尻をなぞれば微かに濡れていた。
不思議な彼女。輪廻の輪を曲げるという事がどういう事なのか龍斗にはよく分からないが、どうやら人よりも《死》を身近に知る彼女から紡がれる声は、言葉以上に切実な響きを持って胸に響く。
龍斗は改めて命の大切さ、今ここに生かされている意味を考え、その重さを胸に刻む。
「…分かった。有り難う、比良坂。お前のお陰で俺は今ここにいれるんだ。俺だってもうあんな思いは二度としたくないから、今度は絶対にこの命を大切にする」
「はい…」
鬼道衆と出会って別れて、そして龍閃組と出会ってここまで来た事、意味を持たせる為には生きなければならない。最後の最後、振り返った時にしかそれはきっと分からないのだから。
だから龍斗は、両者を結び付けたいと思った。陰を知る彼等と陽を見る彼等、お互いに欠けた物を補い合えば龍斗だけでなく、誰にとってもそれは限りなく強い、生き抜く為の《力》となる筈だ。だが、今はまだ一つというにはお互い少し距離があり、繋ぐ役目をしたくとも鬼道衆は龍斗を覚えてはいない。今はもうそれでもいい、また新たに絆を作ればいい、と思ってはいるのだが。
「…それともう一つ、有り難う比良坂」
「え…?」
「何であれ、お前だけでも俺を覚えててくれて、今夜は嬉しかった」
「龍斗…」
例え龍斗を生かした張本人であったとしても、覚えていて当然だったとしても、鬼道衆の緋勇龍斗だった頃を知ってくれている彼女の存在は、やはりどこか寂しさを覚える龍斗にとっては心強い。それはあの日々が、夢でも幻でもなく真に現の物だったと改めて確信させてくれるから。
龍斗は微笑い、手に寄せられている頬を、本当に感謝している事が少しでも伝わるように撫でる。比良坂もほっ、と微かに笑むと、はい、と頷いた。
この夜の様な闇から救い出してくれた彼女、希望を与えてくれた仲間達。今度は自らが彼等をこの闇から救いたい。龍斗は決意も新たに眼差しを強くする。
やはり、今は何よりもそれが肝要だろう。
終
比良坂さんは冥界の女王な訳ですが(血風録ちゃんとやってない…)、蘇生効果一人一回だけはこっちが勝手に決めただけなので、気にしないで下さい。
で、今度は涼浬が出て来ないってゆう。
しかしラストの構想がようやく見えて来ました。
そのラストがいつになるかは謎ですが…。あと多分3、4話くらいですかね。
[7回]
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