「―――本当かい?」
その報せに壬生は驚いて顔を上げると、手にしていたカップをカタンとテーブルに置いた。小さく丸いそれを隔てた向こう側には、朱に染まって緩む頬を隠そうともせず、上目使いに壬生を見る龍葉が座っている。
大きく開放的な窓の外の景色は、冬の灰色の空とその下に雑多と立ち並んだビル。そして後は行き交う沢山の人々の姿。暖色の照明で照らされた落ち着いた店内は温かい飲み物を求める客で賑わっているが、壬生達が座る店内に奥まったイートインスペースでは、勉強をする者や本や新聞を読む者が多く、それ程喧騒を感じさせない。そんな新宿のとあるカフェで、壬生は龍葉からその話を聞かされた。
「エヘヘぇ〜」
「そう……そうか―――」
嬉しそうに笑って肯定を伝える龍葉に、壬生はほっ、と微笑する。
龍葉からどうしても話したい事があると連絡を貰ったのはもう一週間も前。すぐに会ってやれれば良かったのだが、壬生も忙しくて中々時間を作れなかった為、今日まで待って貰う羽目になった。そうして今やっと聞けたのだが、それは余りにも突然であり、また喜ぶべき吉報だった。
龍葉は念願晴れて、ようやく如月と付き合う事になったらしい。
「紅葉くんにはど〜っしても直接伝えたかったんだぁ」
「だから電話じゃ駄目だったのか」
「うん〜。紅葉くんにはずっと聞いて貰ってたしぃ、あの時迷惑も掛けちゃったしね〜…」
龍葉はごめんねぇ、と申し訳なさそうに笑う。
あの時とは恐らくクリスマス前、病院から抜け出した時の事だろう。
「…まぁ確かにあれからずっと心配していたから、上手くいったのなら本当に良かったと思うよ」
あの後、病院に連れていく道中龍葉は何も喋らなかった。だから壬生も何も聞かなかったが、それ以来龍葉の口から如月の話はもう出なくなった。壬生は気になりつつも、あの日の二人の様子からよっぽどの事があったのだろうと、やはり憚るしかなく、今の今まで二人がどうなったのか全く知らなかった。だからこの報せには本当に驚きはしたが、素直に良かったと心から思える。
これでもう龍葉の悲しむ顔も、無理に作った笑顔も見なくて済む。
「それで?まさかこうして呼び出しておいて、それだけって事はないだろうね」
「へ?」
「どういう経緯でそうなったのか、勿論聞かせてくれるんだろう?」
「!聞いてくれるのぉ?!」
「聞いて欲しいんだろう?顔に書いてあるよ」
身を乗り出してくる龍葉に苦笑しながら言うと、龍葉は図星だったのか頬を掻いてエヘヘぇ、と笑うと、デレデレと事の次第を話し出した。壬生はコーヒーを啜りながらその光景を微笑ましく見守るが、ふとその屈託のない笑顔に懐かしい色を見付けると、思い出したように苦笑した。
――そういえば、丁度もう一年になるのだろうか。あの日もそう、こんな天気の日だったような気がする。あの頃と何ら変わらない笑顔を浮かべる目の前の彼女、緋勇龍葉と出会ったのは。
――紅葉、紹介しておきたい子がいる。
あの日、そう言って壬生の師匠、拳武館高校館長鳴瀧冬吾は不敵に笑った。
任務以外の事で珍しく呼ばれ、地方のある拳武館の支部道場に訪れた際の事である――――
「私直々に教えているから兄妹弟子という事になるのか。最近始めたばかりだがとにかく筋が良い。才覚だけを取ればお前に負けるとも劣らない逸材だ」
「はぁ…」
上座に座し、威勢の良い声を上げ稽古に励む大勢の門下生を見守りながら得意気に話す鳴瀧を、ほんの小一時間前に道場に着いたばかりの壬生は、横に倣いつつ呆けて見た。鳴瀧がそんな風に誰かを評するのを初めて聞いた様な気がするからだ。
「それで、それはどの人なんですか?」
普段他人等には興味がない壬生だが、鳴瀧冬吾は彼が唯一尊敬する人物であり師匠である。その師がこれ程認める弟子なのだ、一体どんな男なのかと今ばかりは視線を巡らす。
「あれだ。今丁度あの一番大きい者と組んでいる子がそうだ」
そうして鳴瀧が指した方を見れば、確かに一際屈強な男が乱取りをしていたが、その体躯が大きい為か肝心の相手はちらちらと見え隠れするだけで、はっきりと全容を窺う事は出来なかった。しかし見る限り男にしては些か小柄なようだ。
「あれではよく分からないか…」
顔をややしかめる壬生に、鳴瀧も同じなのか苦笑気味に呟くと、側にいたこの道場の本来の師範を当然のように呼び、連れてくるよう頼む。鳴瀧は拳武館を纏める長としてあまねく幹部、支部長を意のままに動かす事が出来るのだ。
そうして師範が乱取りの最中の二人を止めるのを壬生は目で追い、今度こそはっきりその姿を捉えると唖然とする。
「――……おん…な…?」
着崩れた胴着を直し、礼を取る姿は男の面影などどこにもなく、どこからどう見ても女でしかなかった。しかも壬生と同年か少し下に見える。
「なんだ?男だと思っていたのか?」
「い、いえ…そういう訳では…」
師が腕前を認める人物、兄弟弟子、徒手空拳。先入観から確かめもせず男だと思い込んでいた壬生は、鳴瀧に笑い含みに聞かれ、己の不明に恥じ入って口ごもる。
そうしてる内にもこちらへやって来た少女は、鳴瀧と視線を交わすとにこりと笑んでその前に座った。
「お待たせしましたぁ」
「いや、稽古中にすまないな」
「うぅん〜、先生がお呼びなら例えお風呂中でも行きますよ〜。あっ、デート中は微妙ですけどぉ」
「ふ…、恋人はいないのではなかったかな?」
「今は、ですよぉ」
師弟関係にあるにも関わらず、厳格な鳴瀧を前にしても物怖じする様子もなく、極軽い調子で気安く他愛のない話をする少女に、壬生は少し面喰らう。そして同時に感じる違和感に思わず眉を潜めた。
徒手空拳なんて男勝りな物を習っている割りには、年相応の華やかで可愛らしい笑み。それに身体付きもやはり華奢で、雰囲気もどこかふわふわとして掴み所がない。そんなこの場にいるのが、まるで相応しくないような普通の少女のように見えるのに、けれどその瞳からは何者にも負けない、確固たる強い意志を感じるから戸惑ってしまう。
こうだと判じるにはちぐはぐなその印象に、壬生は何か得体の知れない物を見るかのように身構えてしまった。
「…いや、そんな話は今は置いておこう。龍葉、今日は彼を紹介したかったんだ。彼は壬生紅葉。君と同じく私が教えた弟子の一人だ。紅葉、彼女は緋勇龍葉。お互い同じ高校二年生だ。仲良くしたまえ」
「ふぇ〜、同い年なんですかぁ?もっと年上だと思ってました〜」
確かに壬生は初対面の相手に正確に年を当てられた事はないが、こうもはっきり言われるのも心外なものだ。
しかしそんな数々の、壬生の自分への心象を知る筈もない緋勇龍葉という少女は、無遠慮に壬生を見ると正座したまま近付き、笑顔で手を差し出してきた。
「緋勇龍葉ですぅ、よろしく〜」
「……どうも」
しかし壬生はその手を取る事なく、一言だけ返すと後は目を背ける。すると龍葉は不思議そうに瞬いて自分の掌を見て軽く振ったが、ふむ、と頷くと気にした風もなくそのまま手を引っ込めた。
「でもぉ、先生がこんな風に誰か紹介してくれるなんて珍しいですねぇ」
「君達なら気が合うかもしれないと私なりに見立ててみたんだが、どうだい?仲良く出来そうかな?」
出来る筈がない、と壬生は内心吐き捨てる。気が合いそうなんて、全く鳴瀧は何を考えているのか。彼女とは同じ弟子という事以外にまるで共通点を見い出せないし、そもそも住んでいる世界が違うだろうと、考える間でもなく答えが分かりきっている。
「はぃ、もちろんですよ〜」
「……?!」
しかしそんな壬生の思いとは反対に龍葉は淀みなく答えると、ねぇ、と笑い掛けてくる。本気でそう思っていそうな笑顔が理解出来ずに壬生が呆れていると、鳴瀧はその返事に満足したのか太い笑みを浮かべ、よし、と龍葉の頭に手を置くものだから益々呆れてしまう。いつになく甘い師匠とやたら難解な少女。この二人は一体何なのだと、壬生はひたすら怪訝に思うしかなかった。
「ところで龍葉、休憩が終わったら紅葉と手合わせをしてみないか?」
「えっ」
龍葉を訝りむっつりとしていた壬生だったが、その鳴瀧の提案に思わず声を漏らしてしまう。明らかに嫌だと分かるその響きに、鳴瀧は怪訝そうに壬生を見てきた。
「なんだ?不服か?」
「い、いえ…、ただ今日は胴着を持って来ていないので…」
「ああ、それならこちらで用意しよう。滅多にない機会だ。しっかり妹分の面倒をみてやってくれ」
「……はい…」
壬生としては余り近付きたくないのだが、鳴瀧に頼まれては断れる筈もなく渋々頷くしかなかった。
その後龍葉はまた稽古に戻ったが、程無くして休憩となり、門下生は各々水分補給やらに散っていった。壬生は鳴瀧に言われた通り胴着を借りて、更衣室に向かおうと廊下を歩いていたが、その途中ポケットの携帯が鳴り立ち止まる。
「はい……ああ、母さん」
電話の相手は入院中の母だった。今日は先日の検査の結果が出る日で壬生も付き添う予定だったのだが、ここに呼ばれた為に行けなくなったのだ。
「…そう、良かった……うん………僕はまだこれからだよ。でも明日はそっちに行けるから。……うん、早く病室に戻らないと。……うん、それじゃあまた」
電話を切り、壬生はほっと安堵の息を吐く。良くはなっていないようだが、悪くもなっていないのなら取り敢えずは安心出来る。そうして明日は何か花を買って行こうとぼんやりと思いつつ携帯を仕舞ったが、気を抜いた背にふと視線を感じ、はっと振り向いた。
「……君は…」
少し離れた位置にペットボトル片手にぽつんと立っていたのは、先刻鳴瀧から紹介された緋勇龍葉だった。
壬生は軽く驚くが、龍葉はきょとんとした顔で小首を傾げると、とことこと近づいて来た。
「お母さん何かご病気なのぉ?」
「…盗み聞きとは、余り良い趣味とは思えないね」
聞いていたのか、と険を含んだ批難の視線を向けると、龍葉は一瞬びくっとしたが、すぐに手を前に突き出しぶんぶんと振った。
「ち、違うよぉ…!たまたま通りかかったら聞こえただけでそんなつもりじゃぁ…!」
「…ふん、何にしろ君には関係の無い事だ。余計な詮索はしないでくれ」
「う…ごめんなさぃ……」
龍葉はしゅんと項垂れるが、でも、と控えめに笑い掛けた来た。
「壬生君てちょっと恐い人なのかなぁって思ってたからぁ、ちょっと安心しちゃった〜」
「………」
「あのねぇ〜エヘヘぇ、わたしもお母さん大好きだからぁ」
「……!」
壬生も当然そうなのだろうとでも決め付けるように、龍葉はね、とはにかむ。
「これはわたしの持論だけどぉ、親を大切にする人に悪い人はいないからねぇ〜」
「………」
「まぁそもそも〜、鳴滝先生が見込んだ人なんだからぁ、最初からそんな風には思ってなかったけどねぇ」
声に出す事は無いが、それはどうだろう、と壬生はふと思う。
恐らく彼女は壬生が裏で請負っている仕事を知らない。そして鳴瀧の本当の仕事もこの調子では聞いていないだろう。鳴瀧がいくら世の為と言っても、壬生がいくら母の為だと言っても、それは決して良い事だとは言えない事は壬生も分かっている。
知っていればそんな風に言える筈がない。知らないからこそそんな事が簡単に言えるのだ。
同じ兄妹弟子でも壬生とは対照的に、どう見てもそんな世界とは無縁に幸せに生きているこの少女が、壬生には少し眩しくもあり羨ましくも思えた。しかし同時に感じる苛立ちは、何も壬生が卑屈な所為ばかりでもないだろう。
「ねぇ、壬生くんは元々どうして鳴瀧先生に古武道を習おうと思ったのぉ?わたしは…」
「…君は、よく喋るね」
「え〜?」
龍葉の止まらないお喋りを冷ややかな声で遮ると、壬生はぷいと背中を向けて、再び歩を進める。
「ぁ…、壬生くん…!」
背後からやや焦った声が追い縋るが、それはもう無視して更衣室に向かった。
拳武館でも仕事場でも、壬生の周りにはいつも殺伐とした空気しかなかった。家に帰っても独りだから空気はひんやりと冷たく、母の病室を訪ねても、裏稼業の所為で嘘を吐かなくてはならない罪悪感が常に纏わりついて離れなかった。そんな風に壬生の生活には、ただの和やかな時間という物が欠片も存在していない。だからきっと、何も知らない無邪気で暢気なその笑顔が無性に気に障るのだ。
いつからかもうそんな生活が当たり前になって何も思わなくなったのに、否応無しにその現実に改めて気付かされるから。
「用意はいいか?」
休憩が終わると壬生のウォーミングアップが終わるのを待って、二人は手合わせの為鳴瀧に呼ばれると、道場の半面を利用した試合場で向き合う。もう半面は他の門下生達の稽古用に空けているが、皆横の勝負が気になるらしく、いつの間にか観覧席の様になっていた。
壬生は相変わらず気が進まなかったが、仕方無いか、と気合を入れるつもりで帯を結び直す。龍葉は先程の事を気にしてかやや気不味そうにそわそわしていたが、鳴瀧に言われるとパンパンと両手で頬を叩いて、よしっと何やら小さくガッツポーズのように拳を握った。
「はぁい」
「紅葉もいいか?」
「はい…」
「では…」
鳴瀧は一つ頷いて、す、と手を挙げる。壬生と龍葉も礼を取り構えの姿勢を取るが、その途端ガラリと龍葉の周りの空気が変わった事に気付いて、壬生はは、とする。
幾ら鳴瀧が見込んだ人物といえど、女子で、しかも始めて間もないのならそう大した物でもないだろうと侮っていたが、これ程の気迫を出せるとは意外だった。ちらりと鳴瀧を見遣り、壬生は改めてその慧眼に感心する。しかし、それでも龍葉はまだ素人。こちらにどれ程迫れるものかが見所と言った所か。
「始め!」
振り下げられる手を合図にその空気が動き出す。
まず壬生は小手調べのつもりで攻撃を防ぎつつ、時折り隙を突いてその反応を窺った。
「やぁあ!はっ!」
「………」
反応も動きも悪くはない。寧ろ素人というには有り得ないくらい動けているが、いかんせん技の未熟さと隙の多さが目立ち、壬生ぐらいの手練になれば容易くその手を捻れてしまえる。
だが、と壬生は迫っては離れる龍葉の眼を見る。
最初から眼力が強いとは思っていたが、闘いの場では更に熱さを加え、強く真っ直ぐ射抜いて来る瞳は簡単に捩じ伏せてしまうには惜しく、何か久しく忘れていた疼きを呼び起こされて、不思議な感覚に陥ってしまう。
「…ぁっ!」
「――…?!」
しかし、その感覚に身を任せている内に不意に小気味好い音と感触がして、壬生ははっ、と我に返る。
目の前には上がった自分の足と、それに頭を蹴られた龍葉が傾くのが見えた。
しまった、と思い咄嗟に振り切ろうとしていた足を止めたが既に遅く、龍葉はそのまま床に倒れ込んでしまった。
「龍葉!」
すぐさま鳴瀧が駆け寄り抱き起こすが、龍葉はそのまま気絶してしまっていた。
「脳震盪だな…」
「館長」
「動かしてはまずい。とにかく隅に寝かせよう」
鳴瀧は一先ず稽古は再開させ、タオルを枕に龍葉を上座の畳の上に寝かせると、冷やす用に氷を用意させる。そしてそれを龍葉の頭に乗せながら一つ息を吐くと、壬生を見る。
「…手加減が出来ないとはお前らしくないな」
「すみません…、僕もそのつもりだったのですが…」
「いつの間にか熱くなっていた、か?」
「……分かりません…」
「そうか…。だが、お前の技は軽はずみに使って良いものではない。それは分かっているだろう?」
「はい…、すみません…」
もはや今は壬生の技は相手を倒す物ではなく、殺す物に特化している。振り切らず裸足だっただけまだましかもしれなかったが、それでもまともに喰らえば、普通の人間なら何か障害を残す様な大事に至ってもおかしくはない。暗殺者としても拳武館の人間としてもあるまじき失態に、壬生は苦々しくぐっと眉を顰める。
「彼女は…大丈夫でしょうか?救急車を呼んだ方が…」
「心配ない」
「?しかし…」
「大丈夫だ」
相当な衝撃を与えた筈だが、妙に自信ありげに断言する鳴瀧を壬生は訝る。あれ程可愛がっている風に見えたのに、心配ではないのだろうか。
すると壬生の表情からそれを感じ取ったのか、鳴瀧はふ、と苦笑する。
「この娘はそれ程ヤワではないと言っているんだ」
「………先程から思っていたのですが…、館長はどうして彼女を?」
鳴瀧の言葉の端々から窺える龍葉への信頼と言うか、想いはどうも分不相応に感じ、壬生は思わず聞いてしまう。確かに武術の伸び代は並外れて大きそうな気はするが、まさかそれだけではあるまい。彼女の一体何を鳴瀧は気に入ったのだろうか。
「そうだな…一言で言えば、今は亡き親友の娘だから、か」
「今は亡き…?では彼女のご両親はどちらか…」
「いや、どちらも、だな」
「――…」
「両親という意味では、彼女を養子にした伯父夫妻は健在だ。だが、本当の両親は彼女がまだ赤子の頃にどちらも亡くなっている」
「…彼女はそれを…?」
「秘密にして育てられた筈だが、私と出会った時には既に知っていたよ。…父親の方が私と同門の拳士で、師は違ったがお互い切磋琢磨した間柄だった。心技体兼ね備えた素晴らしい使い手で、彼女にも確実にその血が受け継がれていると知った時は、正直震えたものだ…」
そう言って微笑う鳴瀧は、どこか自嘲しているようにも見える。まるでその父親譲りの才能に喜んではいるが、憂いてもいるような。
今まで一度も見た事のない師の表情に、壬生はどう応えたものか言葉を探しあぐねる。だが、同時にどれ程彼女を大切に想うかも計り知れ、壬生は未だ目を覚まさない龍葉に視線を落とす。
「…では、館長はゆくゆくは彼女も暗殺組に入れるおつもりで?」
「いいや、この娘にはそんな事はさせまいよ。だが、拳武館ではないが、春からは別の東京の高校に行かせるつもりだ。…この娘には、とても大切な使命があるからな」
「使命…ですか?それは―――」
何ですか、と聞こうとしたが、笑みを引いた鳴瀧に何か試すような視線を向けられ、出掛かった言葉を飲み込む。
「今は話す時ではない。…だが紅葉、もしお前にその時が訪れるのなら、その時は私からではなく彼女の方から話してくれるだろう」
「――…?」
曖昧な、けれど確信めいた響きに壬生はひたすら怪訝としたが、鳴瀧はもう視線 を龍葉に下ろしている。
「…ぅ…ぅん……」
その時、小さく唸って龍葉が薄く目を開いた。
「おお…龍葉、大丈夫か?」
「…はれ…?せんせぇ…?」
覗き込む鳴瀧を見上げて龍葉はゆっくりと瞬くが、のそっと上体を持ち上げた途端、小さな声を出して頭を押さえる。
「ぃ…たぃっ…――」
「大丈夫か?」
「―……先生…わたし…?」
「覚えているか?紅葉と手合わせをして…」
「…ぁ、そうだぁ…」
鳴瀧に背中を支えて貰いながら呟くと、龍葉は申し訳無さそうに壬生に振り向く。
「壬生くんごめんねぇ…、びっくりしたよねぇ…?やっぱりわたしなんかじゃまだまだ壬生くんの相手は早かったよねぇ…」
「君…――」
「え〜…?」
本当にかなりの衝撃を与えた筈だが短時間で目を覚まし、しかも特に異常も見せず何でもないとでも言った様子を見せる龍葉に、壬生は心底驚いて呆然とする。これは頑丈だとか鈍感だとかそういう問題ではないような気がした。
――まるで人間離れしている。
「壬生くん?お〜い?」
唖然として固まってしまった壬生を困った様に覗き込み、龍葉はひらひらと目の前で手を振る。それでようやく我に返った壬生は頭を軽く振ると、居ずまいを正して頭を下げた。
「…いや…、僕こそつい本気を出してしまって…本当にすまなかった…。指導稽古のつもりだったのに…」
「そんなぁいいよぉ〜。わたしも凄く勉強になったからぁ。ありがとぉ」
「………」
怒る素振りも見せず屈託のない笑顔を向けられ、本当に凄い子だな、と今度は思わず苦笑を漏らす。
光が溢れるただの平凡な世界で生きてきたと思いきや、聞いた限り決して平坦ではないその人生でも、いっそ愚かに見える程こんなにもまっすぐ優しく育つ人間もいるのだな、と壬生は目が覚めた様な心地になる。
鳴瀧のいう龍葉の使命がどんなものかは今は知る事は出来ないが、もし本当にそんな時が来るのなら、こんな力でも出来うる限りの事をしたい。してもいいと思える。
今まで決して周りにはいなかった限りなく陽の気質を持つ彼女。やはり戸惑いは隠せないが、今ほんの少し共通点を見つける事が出来たから、次はもう少し長く話相手にもなれるだろう。
「…館長が君を気に入っている理由が少し分かった気がするよ」
「え〜?」
「東京に来るんだってね。僕も東京の高校に通っているんだ。君がこれに懲りてなくて尚且つ縁があれば、また手合わせでもしよう。君はまだまだ強くなるよ」
「――…う、うん!ありがとぉ!」
――……ん………葉くん………
「紅葉くんってばぁ!」
「――――!」
ダンッと机を叩かれて、壬生ははっ、と顔を上げる。
「もぉ〜、聞いてるぅ〜?」
目の前にはあの頃よりも少し大人びた顔付きの龍葉が、しかめっ面でこちらをねめつけていた。壬生はついしばし自分が過去を振り返り過ぎていた事に気付き目を瞬かせると、いや、と苦笑する。
「すまない…、少しぼうっとしてたみたいだ。ここ暖かいからね」
平静は崩さないが誤摩化すように言うと、龍葉はむぅ、と頭を捻って壬生を覗き込んで来る。
「…眠いのぉ?大丈夫〜?」
「平気だよ。それよりどこまで聞いたっけ?ええと…、如月さんが黄龍甲を直してくれたんだっけ?」
「そ、そんな所から聞いてないのぉ?もぉ〜!そこからが本題なのにぃ!」
「えっ、そうなのかい?本当にごめん」
「もぅ!紅葉くんから聞いて来たんだから今度はちゃんと聞いてよねぇ?」
「うん、勿論」
渋々と言った感じだが、龍葉はもう一度如月との事を話してくれる。
今度は聞き逃す事のないよう、壬生はすっかり温くなったコーヒーを片手に、龍葉の声に耳を傾けた。
今このタイミングであの日の事を思い出してしまったのは、きっとあの時鳴瀧に言われた言葉の所為だ。
――龍葉を頼む。
龍葉と出会った日の夜、別れ際に鳴瀧はそう呟いた。車で駅まで送って貰い、最後に窓の外から挨拶をして、その窓が完全に閉まる間際だった。それは本当に小さな声で、そうと意識しなければ聞こえないような声だったが、確かに鳴瀧はそう言った。しかしその後龍葉と会ったのは鳴瀧も交えたたったの一度きりで、拳武館での一件まで彼女が何をしているのか知る由もなかった。それでもあの時、鳴瀧が二人の出会いを作ってくれていたからこそ、壬生は副館長の龍葉達の抹殺依頼に決定的な不審を抱く事が出来たし、そのお陰でこうして龍葉の力になる事も出来た。鳴瀧はきっと最初からこれを見込んで二人を引き合わせたのだろうと、今なら分かる。
そして今、龍葉への最後の懸念ももう解消されようとしている。役目は終わった、と言うには胸に芽生えた喪失感が生々しいが、きっと一段落は着いたのだろう。
これからはずっと如月が龍葉の側にいてくれる。今まで壬生が聞いていた分まで話を聞いて、今まで壬生が護っていた背中も新しく護って。如月になら、それら全てを任せられる。
「えへへぇ〜、それで翡翠くんたらねぇ…」
だがこうして龍葉の笑顔を見ていると、やはりこのまま大人しく渡してしまうのは面白くないから、次に如月に会う時はまるで娘を嫁にやる父親のように、泣かせたら絶対に許さないくらいは言ってやろう。壬生以上に龍葉を気に掛け、ずっと見守って来た鳴瀧の分まで代わりに。
「あのねぇ、わたし本当に翡翠くんが大好き〜。これからずぅっとずぅっと楽しい事いっぱい一緒にするんだぁ」
話の最後に、龍葉は顔一杯に幸せそうな笑みを浮かべて締め括る。
あの激闘の最中には見れる事の無かった、何も気負いの無いその晴れやかな笑顔は、あの日の笑顔に限りなく近い。あの時は苛立を覚えたそれも、今となっては何よりも彼女に似合うものだと知っているから、それが戻った事が本当に嬉しい。
「幸せになるんだよ、龍葉」
だからそう微笑んで告げれば、龍葉は目を丸くした後、照れ臭そうに肩を竦めて、うん、と頷く。そして暫く壬生を見つめていたかと思うと、ほんわりと頬を緩め、しみじみと呟いた。
「…エヘヘぇ〜、やっぱり紅葉くんといるとすごぉく落ち着くなぁ」
「そうかい?」
「うん〜。だからぁ、ね〜?」
「うん?」
「これからもい〜っぱい話聞いてねぇ。勿論わたしもい〜っぱい聞くからぁ」
「……―――」
壬生の心情を知ってか知らずか、いたずらっ子のようににっこり笑って身を乗り出してくる龍葉に壬生は虚を突かれたが、不意にふ、と笑いがこみ上げてきて、そのまま顔を背けるとくっくっくっ、と肩を震わす。
「ぅ、うわぁ〜…紅葉くんが笑ってる〜。珍しいぃ〜」
龍葉の驚いた様な、けれど楽しそうな声が聞こえる。
不覚、と思いながらも、湧き上がる暖かい気持ちが妙にくすぐったくて、中々顔を上げられなかった。
龍葉はどうやら、まだまだこれからも色々と話してくれるらしい。これではお互い妹離れも兄離れもまだ当分先になるだろうが、でも自分達がいつまでも兄妹弟子と言うのなら、きっとこれでもいいのだろう。
――館長は、呆れるかもしれないな。
それでも壬生は、いつだって鳴滝が導いてくれたあの出会いに感謝している。
終
…という感じです。
最後壬生がちょっぴり崩壊しましたが、龍葉に対しては我が家の壬生はとことん甘いです。まぁ壬生だけじゃなくて大概みんな甘い訳ですが(笑)
で、龍葉は話みたいに最初は純粋に強くなる事を楽しんでましたが、転校後戦いが本格的になって行くと共に、段々恐さを知って嫌になって行ったって感じです。でも腕だけはメキメキと上達してしまいましたが、っていう。
そう、これの為に朧の「月下之花」を久々にプレイしたんですが、戦闘でただの雑魚だろと余裕こいてたら早々に壬生藤咲が死んでびっくりしました。でもそこはなんとか高見沢に回復させつつ比良坂無双を展開し、何とか切り抜ける事が出来ました(´∀`)
て、話が違う。そうそう、両手に花どころじゃなかったですね壬生さん。話の内容を全く忘れていたので、意外と社交的だった壬生に驚きました。昔は物凄く苦手だった比良坂も、今見ると多少は可愛いと思えました。まぁ美里さん同様ウザイのは相変わらずでしたが、今なら壬生の相手は彼女で良いと思える。でももしうちがこのシリーズで書くとしたら、龍葉←比良坂←壬生で百合を含んだ三角関係にしちゃいますが(笑)
そして藤咲高見沢コンビですが、彼女達もやっぱり今見てやっと良さが分かった。いつか女の子だけでワイワイした話が書きたいものです。
でもみんな揃って龍麻大好きで微笑ましいんですが、見てて壬生と一緒に「罪な男だ…」と思わず呟いてしまいました。本当にマジで一回龍麻がどんな風に説教してるのかを見てみたいです。
最後に、この話を機会に「剣風主人公設定」の龍葉の欄に、簡単な生い立ち的な物を追加してみました。話の中にいつか出そうかと思ってたんですが、多分無理そうなので。
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