――…俺は、かつて鬼道衆にいた。否、いた筈だったんだ。
――仕事が手につかない。
涼浬は一人だけいる鼻唄混じりの客には聞こえぬよう、そっと溜息を吐く。
お伽噺のような話を聞いてしまったあの日以来、胸にかかった靄は中々取れない。聞かなかった事にするとは言ったけれど、当然忘れられる筈もなく、何度も何度も頭を過り、その度に何か支障をもたらす。
そして同じく耳を過る鼻唄に、涼浬はじとりと客を見遣ると、やり難そうに眉間を寄せた。
その客はまさにその支障と靄の原因である人物。
「涼浬、これとこれ、どっちが良いと思う?」
そう言って赤と緑の二束の組紐を手に取ったその男、緋勇龍斗は、こちらの気も知らず暢気な笑顔を向ける。
「…お好みでどうぞ」
「おいおい、どっちも好みだから聞いてるんだろ?」
「…どちらでも同じでしょう。結べればなんでもいいじゃありませんか」
その笑顔が益々気に入らない涼浬は、自然口調も刺々しく突き放した物になってしまう。しかし龍斗は気にした風もなく難しそうに眉間を寄せると、組紐を見比べる。
「そうは言うけどなぁ、色は結構重要なんだぞ。見た目は勿論、結ぶ時の気持ちも色で変わる事があるからな」
「それよりも、早く選んで帰った方がいいんじゃありませんか。もう日が暮れますよ」
そう言って見遣った外に行き交う人々の影は、既に東の方へと長く伸び始めている。
「涼浬は?」
「え?」
「日が暮れるから帰れっていうなら涼浬もだろ?」
涼浬に倣って外を見た龍斗が不意に聞いてくる。確かに同じく龍泉寺に居候する身としては、涼浬も条件は同じだった。ただ、涼浬には帰るつもりがないだけで。
「私は…」
「まさか今日も帰らないってか?」
しかしそれを告げようとすると、龍斗は呆れた調子でその先を奪い取り、面白くなさそうな顔をする。
「…諸用があるので」
それを煩わしく思い、目を逸らしながらも一応付け足すと、大きな溜息が聞こえてくる。
「全く…、最近いっつもそれだな。帰って来ても夜遅かったり、またすぐ出掛けたり…。この店の事もそうだけど、公儀隠密ってそんなに忙しいのか?」
だから嫌なのだ、と涼浬はひっそり眉を寄せる。
龍斗はこうやっていつも驚くほど他人を見ている。遅く帰る時も出掛ける時も、涼浬は忍の性か物音を立てないようにしているし、そもそも涼浬の部屋は龍斗達男陣が雑魚寝している部屋からも少し離れている為、常人であれば気付ける筈もないのに、龍斗だけはこうして気付いている。きっとそれが頻繁になったのが、あの日以来である事にもとっくに気付いているだろう。
そう、別に店が忙しい訳でも、特別に指令がある訳でもない。本当はただ帰りたくないだけだ。龍斗がいるあの寺に。
今も本当は、どんな顔をして向かえばいいのか分からない。
だが、龍斗の方はあんな事があったのにも関わらず、何故か以前と変わらず平然としているから、涼浬は戸惑いと悔しさを感じているのだ。
だからそれ故に募る苛立ちに、つい皮肉めいた言を口にしてしまう。
「…同じ公儀隠密でも、貴殿方のように鬼退治だけしていればいいという訳ではありませんから」
「…―――」
しかし、言ってすぐ失言だと気付き、涼浬ははっ、と顔色を変えると龍斗を見る。
龍斗は表情こそ変えていなかったが、ふ、と目を逸らすと微かに苦笑した。
「鬼退治…か…」
しかし組紐を戻しつつ呟く声は明らかに哀調を帯びていて、自業自得でありながらも涼浬の胸は痛む。
「あの…私は……」
「…それだけっていうけど、意外と大変なんだぞ。鬼退治ってやつは」
しかし、やはり苦笑気味に龍斗は言うが、その言葉の裏に隠された本当の意味を知ってしまっている涼浬には、その響きは一層重く自らにのし掛かかって来る。
本当に何故あんな事を聞いてしまったのだろうと、幾度となく繰り返した後悔がまた頭をもたげてきた。お陰で怒りにも同情にも片寄れず、こうしてつい曖昧な態度を取ってしまう。
結局幾ら龍斗に失望しようとも、彼への情を捨てきる事が出来ない以上、涼浬にはこの状況をどうする事も出来ないのだ。やはりこれもまた、あの兄との時と同じだと思うと、本当につくづく自分の弱さが嫌になる。
涼浬は俯き、やりきれなくぎゅっと唇を噛むが、しかし次の瞬間ぴしっと額に痛みが走り、驚いて目を白黒させる。
「なっ…?!」
患部を押さえて顔を上げると、目の前には弾き出されたらしい指があった。目を丸くしてその先の龍斗を見ると、何やら顰めた顔をしている。
「何て顔してるんだよ。俺何かそんな顔させるような事言ったか?」
どうやら一連の苦悩がすっかり顔に出ていたようだと気付いた涼浬は、忍として、またそれ以上に今は毅然としていなければならない相手の前でのその失態に、恥じ入って黙り込んでしまう。そうしてやや店内には沈黙が降りるが、それは龍斗がまたも吐いた大きな溜息で破られる。
「涼浬は頭が固いな」
そう言って今度は涼浬の頭を軽く叩いて、龍斗は苦笑する。
「…何するんですか」
涼浬はむっとして手を払うが、それをひょいと避けた龍斗は、やれやれと肩を竦めた。
「やっぱり涼浬には刺激が強過ぎたよな。ごめんごめん」
「何がですか?」
怪訝そうに聞いては見るが、言われずとも主語は分かる。当然龍斗は気付いている筈だから。
「この間の話だろう?その顔の原因は。見りゃ分かるよ。最近避けられてる様子なのもその所為だ」
「………」
「そっちが聞かなかった事にするって言ったから俺もそのつもりだったけど、内容があれじゃあ気にするに決まってるよな。特に涼浬の立場じゃ」
つまり、龍斗はやはり涼浬の様子に気付いてはいたが、それでも態度を以前と変えなかったのは、あの時涼浬が耐え兼ねて、去り際に呟いた拒絶の言葉が元という訳か。
要するにこれもまた自業自得なのかと、涼浬は滅入る気分を抑えられない。
「買い被った、とは思わないけど、今回の件に関しては俺の配慮が足りなかった。悪かったな」
龍斗に憤っていた筈なのに、いつの間にか心は自己嫌悪へと向かい、それまで何も知らず暢気に龍斗に甘えていた、自分自身にさえ失望する。
「…まだ、そんな顔するのか?」
一体何がそんなに許せないのかもう分からなくなっていると、そっと頬に手が伸びてきて、寂しそうな瞳が顔を覗き混んで来る。
「…あのな、涼浬。俺は涼浬が思っている程、凄い人間でも何でもないんだぞ?」
そうして唐突に切り出すと、子供を諌めるようにぺちぺちと軽く頬を叩かれる。
涼浬がその意味を量り兼ねて口を開こうとすると、それは目線で制された。
「涼浬は時々、俺を聖人君主か何かを見る様な目で見るけど、俺はそんなに尊敬されるような大人物でも、完璧な人間でもない」
一体何を言い出すのだろうと涼浬は首を傾げるが、ふと何かが心当たり、妙に落ち着かない気分になる。
「鬼道衆の事、俺はすごく好きだ。龍閃組の事も、すごく好きだ。この先またどちらか…いいや、例えどちらとも敵になろうとも、やっぱり俺はどちらも好きだ」
「………」
「涼浬、割り切れる事じゃないんだ、これは…。簡単に割り切れる訳がない。どちらも心から大切に思うからこそ、俺は悲しい…」
龍斗の瞳にはあの日と同じ、寂しげな色が浮かんでいる。
「だから俺は、本当はいつも迷っている。苦しんでいるあいつらを見ると、駆け付けて抱き締めてやりたくなる…。傷付けられているのを見ると、もう止めてくれと叫びたくなる…。でも、それでもあいつらは俺を知らない。…でも、それでも俺は龍閃組を愛しく思ってしまう。…そう、矛盾しているんだ」
今は鬼道衆と敵対する龍閃組。辛いならば逃げ出せばよかったのに、それでも今まで彼がそうしなかったのは、龍閃組も同じくらい好きだから。
涼浬が指摘した矛盾とは明らかに違う、人間らしい他者を想うからこその矛盾。
――ああ、そうだ、彼はいつだってこうだった。
涼浬の頬を暖かい物が伝う。
「涼浬、こんな俺は強いか?」
いつも護られ教えられるばかりで、いつしか見上げる背中は遥かに強く大きな物になっていた。その内面を自分如きが推し量るのは不可能だと、目を背けていた。そうして護られていればいいのだと。当然のように、自分達を導いてくれるものなのだと甘えていた。だからあの時、涼浬は寂しく思ってしまった。《龍閃組だけの緋勇龍斗》でなかった事が、まるで幼い憧れが壊されてしまったかのように失望してしまった。それらは全てこの心が勝手に作り上げた偶像に過ぎないのに。
だがそうではない。本当の龍斗は、等身大の龍斗は、いつも誰にでも全てを惜しみなく曝け出していたではないか。優しさは勿論、怒りも悲しみも、強さも弱さも全部。多少の秘め事など軽く帳消してしまえる程に、彼は他人に心を砕いていた。だからこそ彼の周りには人が集まる。そんな龍斗だからこそ涼浬も共に闘いたいと、そう思ったのではなかったか。
「―――…ごめんなさい………ごめんなさい…龍斗さん…」
愚かなのは自分だ。許せないのは自分の心だ。この狭い視野は、結局また見失ってしまっていた。
「ごめんなさい―――」
唇を噛んで堪えるが、抑えきれなかった数滴がぽたぽたと零れる。
いつまでも成長しない己の未熟さがただ情けなかった。こんな事で龍斗を傷付けてしまった事が、ただただ悔しかった。
それでもくしゃりと頭を撫でて来る手は、やはりいつものように優しげで。
「泣くなよ…。俺は別に怒ってる訳じゃないぞ」
「分かっています…。でも…私は貴方にひどい事を……」
「最初から分かって貰えるなんて思ってなかった」
「それでも……話して下さったのに…」
「それは、涼浬だからだな」
「え…?」
さらりと明瞭に告げられて、涼浬が思わず顔を上げると、にこりと笑んだ龍斗と目が合う。
「なんとなく涼浬にはさ、知っていて欲しかったんだ。俺の事、少しでも」
「……―――」
「多少なりとも俺の事を見ていてくれたから、あの時どうしてだって聞いたんだろ?俺、それが嬉しかった。それが他の誰でもない涼浬だったからこそ、聞いてもらいたいって思ったんだ」
「――どう…して…」
どうして、龍斗は時々自分をそんな風に見るのだろう。聞いて、何かを助言してやれるような語録も経験も、ご覧の通り涼浬は持ち合わせていないというのに。
過大評価とも絶大な信頼とも違う、何かもっと純粋で、胸が熱くなるような眼差し。
ぎゅっと胸を押さえて、涼浬は返る言葉を待つ。龍斗は笑みを引き、じっと涼浬を見つめると、やがてゆっくりと口を開き、手を伸ばして来る。
「それは…」
しかし、その手が頬に触れようとした瞬間、涼浬は何故かびくりと竦んでしまった。
すると龍斗はふ、と口角を上げ、不意に進路を変えると、指でまだ残っていた涙を払い、そしてぽんと涼浬の頭に手を置いて、に、と悪戯っぽく笑った。
「まだ秘密だ」
「……!」
唖然とする涼浬を、ははは、と笑いながら龍斗はくしゃくしゃと頭を掻き回すと、先程の空気はどこへやら、何事も無かったかのように再び組紐を物色しだした。
涼浬は釈然としないまま乱れた髪を整え、まだ追求しようとしたが、しかしそれはずいっと目の前に突き出された組紐で阻止された。
「やっぱりこれにしようかな」
「……青ですよ」
「だから?」
「…赤か緑じゃなかったんですか?」
仕方なく不承不承龍斗の気紛れに付き合う姿勢を見せると、龍斗は満足そうに笑って、事も無げに言ってのけた。
「青って深い泉の色だろ?涼浬っぽいじゃないか」
「なっ…!」
不意を突かれ、不覚にも狼狽える涼浬をまた笑いながら、龍斗は代金の小銭を握らせると、さ、と促すように目配せする。
「俺の買い物も済んだ事だし、さっさと店仕舞いして帰ろう、涼浬。外ももう薄暗いぞ」
「え…」
「それとも、まだ俺と一緒は嫌か?」
もうそんな訳は無い。敢えて聞かずとも分かるだろうに、時々こうして意地が悪いのは、歩みが鈍い涼浬を揶揄しているのだろうか。そういえば、大概こういう時は決まって涼浬が何かに足踏みをしている時のような気がする。
だが、今となってはそれが自分が幼な過ぎる故の事なのだと分かるから、涼浬は敢えて何も言わず、素直に首を横に振った。
「いえ…。すぐ、支度します」
「おう」
だが気付いたからには、この先もこのままでいていい訳は無いだろう。また甘えては、きっと同じ事を繰り返してしまう。
せめて一人で立てるようにならなくては。でなければ、先を行くその背中を追う事も押す事も出来なくなる。
いつかのように、また置いて行かれてしまう。
それだけは、それだけはどうかもう無いように。
そして願わくばその背中を護り、全てを打ち明けられるに相応しい人間になれるように―――
すっかり日は暮れ、月も上った龍閃寺への帰り道、わざと三歩遅れて龍斗の揺れる背中を眺めながら、涼浬はぽつりと呟く。
「…でも、やはり龍斗さんの背中は大きいです」
「なんだ?急に」
「龍斗さんはご自分が強くないと仰いましたが、龍閃組と鬼道衆、敵対していようが忘れられていようが、そのどちらも好きだと言い切れるその心は、やはり強いと思います」
ただ、その姿は前より幾分滑稽に見えるけれど。
そう付け加えると、龍斗は怫然として片眉を上げるが、立ち止まるとふむ、と一つ考える仕種を取る。
「まぁ言い切るって言うよりは、そう思いたいんだよな。あいつらとの絆はまだ切れてないって。だって、そうじゃないと俺だけ取り残されて、やり直せってまた別の所に一人放り込まれて…、それってあんまりじゃないか」
「…そうですね」
「それに、鬼道衆は敵じゃないと俺は思うぞ」
「は?」
これには怪訝とする涼浬に、まぁ聞けよ、と龍斗はひらひらと手を振る。
「俺にとってじゃなくてさ、龍閃組にとっても鬼道衆は敵じゃないよ」
「…彼らは倒幕を狙っています」
「うん。だけど、弱い者や大切なものを護りたいって想いは、俺達と同じなんだ」
「鬼道衆が…?」
詳しくは言えないけどな、と微笑する龍斗の横顔を、月の光が複雑な陰影をつける。
「いつか涼浬にも…皆にもきっと分かる時が来るよ。…俺が今ここにいる、その本当の意味も」
「……―――」
そうして龍斗は口を噤むと、それ以上もうその事については何も語る事はなかった。
もう全く関係の無い、ただの他愛のない話を横で聞きながら、涼浬はようやく見え始めた龍斗の深淵に思いを馳せる。
思っていたよりずっと深そうなそれは、もしかしたら龍斗自身をも孤独にしてしまっているのかもしれない。そもそも時を巻き戻して白紙になったのなら、本当にあるのかどうかも怪しい繋がりなのに、それをこんなに必死になって求めてしまう程に。
きっと彼にとっては、龍閃組だけでも鬼道衆だけでも駄目なのかもしれない。
――陰陽相交じりて太極と成す。
ふと、そんな言葉が頭を過る。
もしかして、彼は―――
涼浬が抱いた疑問に答えてくれる者はいない。
ただ白い月だけが静かに二人の行く道を照らし、涼浬は微かな変革の予感を、その囁かな淡い光に託した。
どうか、彼の往く道に光がありますように――――
終
もう続きませんよ。
ていうかなんでちょっと不穏な匂いが漂うシメになったんだろうか(笑)書いてる内に調子に乗ってしまいますた(^ω^;)
で、涼浬さんですが、今回もなんかやっぱり龍斗に敬愛する兄上を見てるような気がしてならないです。いや、多分見てる。うち自身この龍斗じゃやっぱ被るよなぁって思ってますから。
親愛→兄亀。恋愛→龍斗。涼浬にこれを理解させられる日は来るのか…?!
そしてたっちゃんが兄亀に勝てる日は来るのか…?!
[3回]
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