使命や商売の為なら躊躇わず命を掛けられるのに、自分の内面をさらけ出すとなると何故こうも煮え切らないのか。
こと色恋沙汰で発揮されるらしい――最近気付いた――如月のそれは、洋々として見えた未来に暗雲を翳らせ、己の事でありながらもうんざりとさせる。
そしてここに来て何故か、明瞭だと思っていたその相手も理解が難しくなり、如月には一層の戸惑いが訪れていた。
たった一言で済む筈なのに、人の世はどうしてこうもままならないのだろう―――
激戦続きだった正月もすっかり過ぎ、一月も終盤に差し掛かったある日、如月は店番に立つ傍ら貰い物の高級カステラの包みを、苦虫を噛み潰したような顔で見ていた。
「…カステラ…好きだったよな…」
何て事を呟きながらも、しかし如月の関心は実は別にある。
その上品な包みに思い浮かべるのは、決して上品ではない、けれど無邪気で明るい笑顔。その笑顔をかけがえなく思い始めたのは一体いつからだったのだろう。
苦い表情のまま如月は一つ溜息を吐く。
けれど、以前はいつも当然のように傍近くにあったその笑顔が、今は遠い。それはまさに自業自得という熟語がしっくり来る自身の行いが原因ではあるのだが、相手も確実に何か一歩引いていて、それが一層二人の距離を隔ている気がする。
だがそんな彼女が今日、もうすぐここへ訪れる。それは彼女の誕生日以来、実に一月振りの事であり、如月にとっては現状を変えられる好機であった。
「…そうだ、まずはこのカステラで引き留めて、ちゃんと話をして…それから…」
「こんにちは〜」
「それから…―――!」
一人段取りをぶつぶつ呟いているといきなり店の扉がガラリと開いて、思案の相手、緋勇龍葉が姿を現した。
「た、龍葉…」
突然の事に心構えもなかった如月は動揺に声を上ずらせる。いつもなら誰かが扉に近付くだけで気配を察知出来るのに、よりによって彼女が来る時に気を散漫させてしまうとは。
そしてそんな如月を見た龍葉は物珍しそうに目をぱちくりさせると、小首を傾げてみせる。
「あ〜…ごめんねぇ。ビックリさせちゃったぁ?」
「い、いや、すまない…。ちょっと考え事をしていて…」
「珍しいねぇ、翡翠くんがぼ〜っとしてるなんてぇ」
「そう、かな…」
それは君の所為だ、と内心ぼやきながら如月は眉間を寄せる。
「…久しぶりに会ったのにぃ、何か機嫌悪い〜?」
「別に何でもないよ。それよりもう身体の具合は良くなったのかい?」
今日ばかりはペースに巻き込まれまいと着物の襟をぴしっと正すと、毅然と義務的に訪ねる。
あの激しい黄龍戦後、いくら龍葉といえど限界まで力を使い果たした為か、ついこの間まで桜ヶ丘病院に再び入院していたのだった。
「…あぁ、ん〜…、やっぱりあれだけ激しかった訳だしぃ、何の代償も無しとはいかないよぉ。葵ちゃんや岩山せんせぇ達が頑張ってくれたみたいだけど、少しは痕が残っちゃったかなぁ〜…。体調はもう平気なんだけどねぇ」
龍葉は不本意そうにむぅ、と唸り、特に酷かった右腕をコートの上からさする。
「まだまだ薄くなるみたいだし目立つわけじゃないけどぉ、今年の夏は服とか水着がちょ〜と着にくくなる感じかなぁ。その前にバッサリやられた痕もあるしぃ…、まだまだこれからの女の子としては由々しき事態だよねぇ」
「そうか…」
わざとらしく拗ねてみせてはいるが、実際女性からすれば身体に傷痕が残るのはショックな事だろう。まだ命があっただけよしとするべきなのだろうが、一番護られるべき人が一番傷付いてしまったこの結果には、如月も不甲斐ない思いを隠せないでいた。
「あれぇ?やだなぁ〜、そんな顔しないでよぉ。それで別にお嫁に行けなくなる訳でもないんだしぃ。それにほらぁ、もし行けなくてもその時は翡翠くんが貰ってくれるんでしょ〜?」
自分から聞いておきながら、自責の念にやや表情を曇らせる如月の肩を、龍葉はけらけら笑いながら叩き、悪戯っぽく小首を傾げて如月の顔を覗きこむ。
強がっているのか、そのあっけらかんとした言動に如月は何とも言えない微妙な表情を浮かべるが、一転龍葉はさっと身を引くと、ぱたぱたと手を振った。
「な〜んてねぇ、冗談冗談〜。翡翠くんにだって選ぶ権利あるって話だよねぇ」
「え…」
「エヘヘぇ、ごめんごめん〜」
如月は反応に困るが、龍葉はそれを待つ事なく話題を切り替える。
「それより本題だけどぉ、頼んでた例のブツはどうなったかなぁ?」
「ん…、あ、あぁ、綺麗にはなったよ」
「ほんとぉ?良かった〜」
「今出すよ」
嬉しそうに手を叩く龍葉に苦笑しながら、如月は店内の奥まった場所にある棚から桐箱を取り出し、龍葉の目の前で紐解く。
「物が物だけに直しようがないけど、なるだけ手は施してみたよ」
「わぁ〜ありがと〜」
その桐箱の中に納まっていたのは黄龍甲だった。彫られた鱗は疎らで、見事だった龍頭も角が折れたままだったが、その分指紋を着けるのも躊躇われるくらい綺麗に磨き上げられており、弱くなったパーツ同士の結合部もきっちり直されて、血染みちぎれていた紐もちゃんと新しい物に交換されている。その行き届いた丁寧な仕事ぶりに、思わず龍葉はほぅ、と感嘆の息を漏らす。
「すごく綺麗にしてくれたんだねぇ。こんなにしてくれてぇ…本当にお代いいの〜?」
「君はあれだけ頑張ったんだ。これくらいは喜んでさせてもらうよ。僕としてもこんな至宝があのまま錆びていくのは偲びないからね」
「うん…ありがとぉ。でもあれは他ならないみんなのお陰。わたしすごく感謝してるんだからぁ」
桐箱に頬を寄せつつ、ふふ、と満足そうに微笑って、龍葉は大事そうにまた封をすると、持参したショッピングバックに入れ、じゃあ、と手を挙げる。
「忙しいのに本当にありがとぉ翡翠くん。わたしそろそろ行くね〜」
「…えっ…もうかい?」
何気なく随分あっさりと帰ろうとする龍葉に如月は反応が一拍遅れるが、引き留めるように片手を前に出して龍葉を留める。
「…どうしたのぉ?」
そうして不思議そうな顔で尋ねられ、ふと自分でもらしくない事をしていると思い至るが、つい数分前に決意した事だと違和感を振り切ると、机に置いていたカステラの箱を手に取った。
「その…、カステラを、貰ったんだ。良かったら…食べていかないかい?」
「カス…テラ?」
「じょ、常連の方から頂いたんだ。僕一人じゃ食べきれないから…君さえ良ければ…」
歯切れ悪く言ってカステラを掲げてみせると、龍葉はきょとんとした風だったが、やや思案する仕草を取ると、控えめにじゃあ、と頷く。
「少し、お邪魔しようかなぁ」
「ん〜、おいしぃ〜」
「うん…」
誘いに応じ居間に上がった龍葉は、お茶をお供に切り分けたカステラをぱくぱくと食べながら頬を綻ばせる。しかし如月はろくに手もつけず、目の前の光景に懐かしい思いで目を細めていた。本当につい一月程前までは、いつも当たり前のように在ったこの空間。振り返えれば居心地良く、暖かい掛けがえのない一時。けれど今この空間に感じるのは、安堵よりも焦燥だろうか。
如月は一つ息を吐く。
あの日、龍葉が病院から脱走してここに訪れたあの誕生日以来、彼女がここに来るのも久々なら、こうして席を向かい合わす事も久々だった。表面的な態度は以前と変わらずとも、どうやら避けられている節がある今では稀にない機会。今伝えなければ次はいつ巡ってくるか分からない好機なのだ。
そう思いつつも、しかしこれまでの事を思い出し、如月は己の情けなさに嘆息する。
そう、今日が好機と言ってはいるが、今まで全くその機会が無かった訳でもないのだ。別に今日この時でなくとも、彼女が入院している時に幾らでも伝える機会があって、実際幾度か試みた事もあったのだが、毎回そんな時に限って上手く言葉が出ず、素直になれぬままことごとく失敗してしまっていたのだ。そして思うにその原因は、今までの彼女に対する態度からであろう事にも如月は気付いている。それはあの夏の日、告白されてから今日までの半年の間に、優位故に培われ馴染んだ彼女への素っ気ない態度で、もはやそれが当然と思い込んでいた自分は、どうやらそうと意識しない内に随分と董が立ってしまっていたらしいのだ。
己の些末な矜持の所為で、まさかこんな所でつまずくとは思ってもみなかった如月は、改めてあるがままに生きる事の難しさを痛感している所だ。
しかし、それと同時に恨めしく思うのは、これも頭を悩ませる一因である、最近の彼女の態度である。
以前はあれ程しつこかったにも関わらず、――やはりこれもあの日以来だ――もう好きという言葉を口端にも昇らせないし、抱き付こうとしてきたり腕を組んできたりする事もない。如月自身それだけの事をしたのだという自覚はあるが、こうも明から様に変わられてしまうと流石に嫌われてしまったのかと不安になるし、もしまだ嫌われていないとしても、ではそうする意味は何なのかと、今度はやきもきさせられてしまう。それでも黄龍戦直後に抱き締めた時の反応は悪い物ではなかったと思うのだが、心の機微に疎い如月には他人の、ましてや異性の考えなど及びもつかぬ領域で、そこに潜む彼女の本心を見分ける事など出来よう筈もなかった。
少なくとも今確信出来ているのは自分の気持ちと、彼女のあのたった一言をまた聞けさえすれば、今度は迷わず素直に応えられるだろうという心構えだけ。
「…若旦那〜、いるかい?」
そんな如月がもどかしさに唇を噛んだ時、ガラリと店の入口が開く音と共に、如月を呼ぶ初老の少ししわがれた男の声が聞こえてきた。
その聞き覚えのある声に、如月はこんな時に、と少々顔をしかめて店の方を見る。龍葉もふいと顔を上げると、小首を傾げた。
「お客さん〜?」
「ああ…」
「?行かなくていいのぉ?」
「いや、そうなんだけど…」
「わたしの事ならいいからぁ、行かなきゃ失礼だよぉ?」
「うん…」
しかし中々立ち上がる気になれない如月を龍葉は怪訝そうに見る。
「若旦那?いないのかい?」
「…今行きます」
だが再び呼ばれ、今度は返事をすると如月は立ち上がり、龍葉を気にしつつも渋々店に出に行った。
「…お待たせしました」
「いやいや、いたのならいいんだよ。ところで聞いておくれよ。例の皿なんだがね…」
如月が顔を出すなり話し始めるその初老の男は、いつも買い物というよりは世間話をしに来ているような客だった。一応内容は骨董の話だが、そこから派生し脱線するどうでもいい話の方が長く、しかもしつこいから甚だ迷惑しているのだ。悪い人ではないのだが、何も今このタイミングで訪れなくてもいいのにと思う。しかし客である以上無下にする訳にもいかず、如月は鬱々としながらも空返事をしつつ、話が尽きるのを待った。
そうして一時間近くも喋り倒した後、結局何も買わなかったものの、その客はようやく帰ってくれた。如月はやたら疲れたと、店から出てその背が見えなくなるのを確認すると、早々に閉店の札を出し、そのまま鍵を掛けた。
「まったく…」
始めからこうしておけばよかったと、やれやれと眉間を押さえると、如月は龍葉を待たせたままの居間に戻ろうとする。
しかしその途中、如月はふと龍葉にまだ何も話せていない事に気付いて足を止める。折角引き止めたのに、まさか一人逡巡するだけで帰してしまっては情けないにも程がある。これではいけないと頭を振ると、如月は今度こそと居間に戻った。
「…待たせたね」
なるべく余裕めいた自然な口調を装い居間に入った如月は、飽きたように壁にもたれている龍葉に笑いかける。しかし龍葉は返事が無く、畳に投げ出された手にやんわり握られた小説はページが無造作に捲られていて、意識を夢に誘われている事を示していた。
「…ね、寝てる……」
思わずがくりと膝を着き、如月は参ったように髪を掻き上げるが、その時ふとその小説が目に付き、内容がちらりと見えると目を丸くする。
「洋書…?」
白いページ達には縦文字ではなく横文字がひたすら羅列され、進学校にあっても成績は良いと自負している如月でさえ、意味が分かるような分からないような本格的な内容の物だった。こんな物を読めてしまえる龍葉に純粋に感心しつつも、如月はふと以前彼女が語っていた夢を思い出し、引き止めてしまって申し訳なかったな、と苦笑を漏らす。
彼女の夢は翻訳家になる事だという。昔から外国の童話や絵本が好きで、母親が語学堪能だった事もあり、まだ日本では出版されていないあちらの絵本もよく読んでくれたらしい。だからそういった、あちらで埋もれたままの絵本や童話をこちらでも沢山の子供が読めるようにしたいのだ、と龍葉は言った。
実際翻訳家になるというのがどれだけの険しい道のりなのか如月には分からないが、龍葉はその為に今までも勉強を重ねてきたようだし、現にこうして語学力もかなりのレベルに達しているようで、卒業後は進学して、そのうち留学も考えているのだと熱く語っていた。きっと今、本人はまさに受験の為のラストスパートの時期で、今まで使命の為に犠牲にした時間を取り戻そうと、必至に勉強に励んでいるのだろう。
如月は龍葉の疲れが覗く寝顔を見遣り、切なく目を細めた。
やはりなんだかんだ言っても龍葉は自分の意志をしっかりと持っていて、他人が力になりたく思っても、結局最後は一人でも出来てしまうのだ。
現にあの黄龍戦でもそうだったし、翻訳家の夢だって元々の明晰な頭脳を差し引いても、彼女なら成し遂げてしまうのだろうと思える。彼女はそれを皆のお陰とは言うが、いつもいつも護られ、力を貰っているのは寧ろこちらの方だ。彼女がいなければ自分達はきっと、まとまる事も闘う事も出来なかったのだから。
それでもこれから、仲間達は皆それぞれの道を一人で歩き出さねばならない。中にはもう簡単に会えなくなる者も出て来るだろう。
そしてこの店も、平穏を取り戻した彼らにはもう必要のない場所になる。会う理由も、会いに行く理由もなくなる。
それは、今はここで眠っている龍葉も例外ではなく。
「―――……」
ぽたりと一粒雫が着物に落ちて流れる。驚いて頬を探ると、今度はその手を雫が伝っていった。
――泣いて…いるのか…?この僕が。
それはもう以前がいつだったか思い出せない程、久しく忘れていた感情表現だった。素直な驚きと戸惑い。如月は手を広げて、ただそこに零れ弾ける雫を見た。
「……ぅん………」
その時、龍葉が小さく呻いて目を覚ます。眠たそうに目をこすりながら腕時計を見ると、ぽんやりとしたまま顔を上げた。
「…はれ……ひすい…くん…?」
「……やぁ、おはよう」
「ぅん〜…」
正座して正面に座ったまま、如月は何故か平素通りに言葉を返す。だから龍葉も一旦は頷いて、のろのろとバックに手を伸ばそうとするが、次の瞬間完全に目を見開いて、ガバッと物凄い勢いで如月を振り返った。
「ひ、ひひひひ翡翠くんっ…?!!」
「ああ…変だろう?何だか止まらないんだ」
「へっ…変だろうって……そ…そんな平然と……」
稀にない有様に相当焦ったようで、龍葉はわたわたと手を弄んだ後、はっとしてポケットからハンカチを取り出し、身を乗り出すと困った表情を浮かべながら如月の涙を拭き始める。
「あ、あの〜…泣かないで翡翠くん…!よく分からないけど元気出してぇ…!」
「君の所為だよ龍葉」
「えぇ〜?!わたし何かしたぁ…?!」
「まぁね」
「そ、そんなぁ〜…」
依然止まらない涙を拭いてやりつつも、心底困ったように情けなく半べそをかく龍葉を、如月はされるがままに見つめる。
寂しくて仕方がなくて泣いている筈なのに、どうしてこんなにも自分は冷静でいられるのかが分からなかった。やはり、自分はどこか他人とは感情の機能の仕方が違うのだろうか。そして何の我慢も無い、これが如月にとってのあるがままの自分というものなのだろうか。
ならば、今この機会を逃す手はない。
「翡翠く〜ん…お願いだからもぅ……―――――」
ふっと手を伸ばし肩を引き寄せると、それは容易に腕に収まり、ふわりと香る優しい香りと共に抱き込めば、びくりとその身を硬直させた。
「―――…ひ…翡翠…くん……?」
「龍葉…」
「―――…」
微かな緊張を吐き出すように囁くと、肩越しに息を呑む気配がする。密着した、思っていたよりも細かった身体から感じる鼓動が、音を早めていくのが分かった。
「……ぁ……ぁのっ……」
ようやく上がった上擦る声は戸惑いの色が濃く、離れようと着物の脇を掴まれ引っ張られたが、如月はそれを許さず力を込める
「ひ、翡翠くん…本当にどうしたのぉ…?変だよ?」
「龍葉…君は、僕の事をどう思っている?」
「え…?」
「君の、気持ちが知りたい」
本当に何故こんなにも冷静でいられるのか。さっきまではあれ程やきもきして焦っていたというのに、今は何をするのにも躊躇いを感じない。だが、惜しむらくはこの涙だろうか。これの所為で何か格好がつかないような気もするが、しかしどうやら止め方を忘れてしまっているようだ。
龍葉は尚も困惑しているようだったが、真剣な調子を感じ取ったのか、離れようとするのを遂に止めると、手を背中に回し、ぎゅっと着物を掴んできた。
「…どうして…そんな事が知りたいの…?」
鼓動は静かになり、平静を取り戻したそっとした声が耳に沁みる。
「わたしは………わたしには…翡翠くんの気持ちが分からない…――」
名残を惜しむように、一度だけ龍葉の頬が肩に押し当てられるが、すぐ身体ごと離れ、今度は如月の顔を覗き込んで来た。二度目は抵抗せずそれを許した如月は、目の前に現れた、苦笑とも自嘲ともつかぬ悲しげな微笑を浮かべた顔を見返した。
「翡翠くん…わたしの気持ちは、あの時と何も変わってないよ?」
そうして涙を拭うようにそっと目元に唇が押し当てられ、如月ははっとして目を見開いた。静かだと思っていた心が初めて水面を揺らす。
「だから…翡翠くんの気持ちは…?」
「――…僕…は………」
「言って、翡翠くん…。わたしばっかり…いつもズルいよ…」
今にも泣いてしまいそうだと思った。龍葉は笑みを強張らせ、着物を掴む手は小さく震えている。感情が豊かな彼女のことだ。きっと如月以上に悩んで躊躇って、そして苦しんで。その目の前のモノに怯える姿は、余りにも普通の少女のそれと同じだと思った。
それなのに自分は一体どこまでこの少女に頼ろうとしていたのか。その強さが悔しくて、けれど望む物は普通の幸せで、だからこそそれを護りたい、支えたい。そう、思っていた筈なのに。
「―――好きだ…」
泣いてなどいられない。もっと強くならなければ。そうでないと、きっといつまでも護られてばかりだ。
「君が好きだ。龍葉」
「―――――…」
涙は自然と止まり、表情が和らぐ。いざ言ってみれば、それは意外とあっさり音になった。たったこれだけの事を、今まで何故そんなにも躊躇していたのか不思議に思える程に。
「―――…っ…………」
「龍葉?」
一方龍葉は表情を隠し深く俯くと、如月の胸に額を埋め、ぎゅっと身を竦ませて肩を震わす。パタパタと涙が着物に落ち弾ける音がした。
「…高い着物なんだ。鼻水は付けないでくれよ?」
冗談混じりに苦笑しながら頭を撫でてやると、龍葉はくすりと笑い、もう、と涙声で呟くと、更に体全体で抱き着いて、うれしそうにぐりぐりと頭を押し付ける。
「わたしも……大好きだよ翡翠くん」
「うん…」
「本当に大好き…。本当に本当にすごく大好き。好きだよ翡翠君、ずっとずっと大好き…好きなんだから」
「はいはい、充分わかったよ」
「ううん…翡翠くんが思ってるより、わたしは絶対もっと翡翠くんが好き」
「そりゃあ…君には誰も敵わないだろうと思うよ」
「ええぇ〜!」
意地悪く言うと、龍葉はがばっと泣きべその顔を上げ、抗議の声を出す。如月はようやく現れたその顔に手を伸ばし涙を拭ってやると、複雑な笑みを浮かべた。
「やっと、言ってくれたね」
「……?」
「好きだ、って…」
「―――…」
「本当は、ずっと待ってたんだ。君がもう一度そう言ってくれるのを」
「翡翠くん…」
「でも…確かにずるかったな、僕は。そう、滑稽な話だよ。君が余りにも積極的な時はいいようにあしらって逃げて、でもいざ追って来なくなると寂しくて…。だけど情けない事に僕は素直にそれを口に出せなくて、逆に追い掛ける事も確かめる事もせず、ただ君を待っていた…」
如月は目を閉じ、改めてこれまでを振り返り、次に目を開ける時には真摯に龍葉を見る。
「龍葉、本当に僕でいいのか?」
「………」
「僕は君より強くもないし、ご覧の通り情けなくて鈍感だ。この先だってまた君を傷付けるかもしれないし、何を気付くのだって遅いかもしれない。それでも君は僕を…」
「はい、そこまで」
しかし話途中にいきなり龍葉は如月の口に指を当てて、ぷにっとつつく。
「…何するんだい」
話の腰を折られ、むっとして如月は龍葉の指を手で払うとねめつける。龍葉はえへっと笑うと、何故か嬉しそうにまた抱きついて来た。
「何なんだ一体。こっちは真剣に…」
「翡翠くんはそれでいいの〜」
「は?」
「翡翠くんが何でも物分かり良かったら最初から好きになんかなってないよ。わたしは翡翠くんのそういう不器用な所を好きになったんだから」
そう言って龍葉はまた身体を離し、今度は彼女が複雑な笑みで如月の顔を覗き込んで来た。
「…ねぇ翡翠くん」
「うん?」
「わたしもね、情けない事にずっと恐かったの」
「………」
「翡翠くんに本格的に振られたあの誕生日以来、わたし翡翠くんと向き合うのが恐くなった。気持ちは何も変わらないのに、もう前みたいにそれでもいいやって思えなくなった。柳生に斬られて、翡翠くんに振られて、それでも闘わなくちゃいけなくて…。こういうの臆病風っていうのかな?もう傷付くのが嫌で、黄龍との闘いの後抱き締めてもらっても、もう期待するのも恐くなってた…」
「龍葉…」
それであの態度だった訳かと、如月はやっと理解しつつ、まだ続く言葉を待つ。
「翡翠くんこそ、本当にわたしでいいの?こんなに執念深くて、きっともう絶対離さないよ?思いっきりベタベタして焼き餅だって焼いちゃうし、今までより困らせちゃったりするかもだよ?それでも…本当に…?」
よく見れば龍葉の瞳の奥にはまだ怯えの色が見える。如月のこれまでの態度を思えば、まだにわかに信じ難いのかもしれない。
そういえば龍葉は妙な所で他人の顔色を窺い、臆病になる癖があったか。もしかしたら今になってもまだ気の迷いや、一時の情に流されたのではないかと疑っているのかも。
それは彼女を長い間不安にさせてきた証左にも思えて、如月は情けなく眉を寄せて笑うと、安心させるようにぽんぽんと頭を叩いてやった。
「君みたいな滅茶苦茶に厄介な子と付き合うんだ。それくらい覚悟の上だよ」
また一言余計だろうと思われるかもしれないが、これがまさに如月にとっての真実なのだ。
かつては頭を悩まされたそれも、今となっては愛すべき彼女の一部で、そんなモノ達があったからこそ、今こうして向かい合っていられる。
心から好きだと、そう思える。
しかし、それでもまだ龍葉の瞳は揺らぎを残す。
如月は一つ息を吐くと、その目尻を親指でなぞり、その動作のままこめかみから髪と指を絡めると、顔を寄せ諭すように瞳を覗き込んだ。
「君、この僕にこれだけ言わせているのに、なのにいつまで怯えているんだい?」
「………」
「もう闘いも終わったんだ。君が僕の事を好きなら、もうそれだけでいいんだよ。今までに比べたら簡単な事じゃないか」
「うん…」
龍葉は如月の言葉を噛み締めるように目を閉じる。その弾みで零れた涙は如月の手を温かく濡らした。
「それに、これからは僕が君を護ってみせる」
「うん…」
「もう一人で行かせない、絶対に」
「うん…」
「だから、もう恐くないだろう?」
「うん…うんっ……」
こくこくと何度も頷いて、龍葉はようやく力を抜くと、遂に堰が切れたように声を上げて泣き出した。
先程のとは打って変わって、如月に縋り付き、わんわんと子供のように泣いて泣いて。その姿に如月が呆れている内に、忠告も虚しく高い着物は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになって、次に顔を見合わせた時にはお互いのもう散々な有様に、もはや笑いしか出て来なくなっていた。
それでもずっと胸に押し込めていたモノが開放された事への満足感に、泣き腫らした顔でも幸せそうに頬を染めながら笑う龍葉を見ていると、着物も腫れた顔も今はどうでもいいように思えて、如月はただ安穏とした空気に身を任せて包まれていた。
「本当に、本当に彼女になってもいいんだよね?」
「だから、そう言ってるだろう」
「うん、わたしすごく嬉しい。ありがとう翡翠くん、大好き」
「ああ、分かってるよ」
そうして、ようやく二人で並んだスタート地点。ここからまた別の、本当の勝負を始めるのだ。何の気負いも制約もない、二人だけの真剣勝負を。
――きっと楽しくやっていける。何より他でもない《緋勇龍葉》、君という人となら、きっと、ずっと一緒に―――
終
あー、やっと終わった。終わりですよね?終わっていいですよね?
あ、でもまだ「完」ではないですよ。あしからず。
しかしいや〜当初の予定とは大幅に変わった今回でした。まだくっ付けるつもりはなかったんだけど、もうさっさと楽にさせてあげようと慈悲心を出しました(笑)
やっぱりこの二人はほのぼのっとした不毛なやり取りをしてる方が似合ってるし、早くそっちの方が書きたいですし。
ところで唐突に龍葉の夢なんてものが出て来ましたが、本編に出す機会がなかっただけで、ちゃんと最初からあった設定なんです(言い訳)。だから後の大学時代、一年間如月と離れて留学して、如月はその時に旅に出れば、ちょっぴり公式に則った設定が活かせるんじゃないだろうかとか思ってました。
以上です。
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