――私の不安を取り除いて下さい―――
――不安?何が不安なのだろう?
『翡翠くん…好きなの…。こんなに好きだって…知って欲しいの…』
――知っている。あの時、痛い程その想いは胸に刺さったから。
けれど、それがあの時本当に君が一番伝えたかった事だったのだろうか。いや、例え本当に一番だったとしても、その想いの裏に隠されていたのは紛れもなく不安だ。抱えきれない大きな大きな不安。
彼女はその宿星を背負うには余りに普通の少女で、だからこそ最初におかしいと感じた時に気付くべきだったのに。
無の境地を目指すが故に痛みに余りにも鈍感になっていた自分。傷付けられる苦痛、死の淵をさ迷う恐怖、未来を背負わされる重責。少し考えれば簡単に気付けたはずなのに。
――後悔。
だが、自分の気持ちさえも分かっていないのに、僕は一体何に後悔しているというのだろう―――
「くっ………」
上下不覚の宇宙のようにぽっかりとした異空間。
それまで連戦続きの仲間達は次々と崩れ、その回復を主にする者達も間に合っておらず、満身創痍の色を隠せない。それは如月も例外ではなく、もはや忍刀を落とさないよう握っているのがやっとの状態だった。
そんな誰もが苦渋に満ち、それでもまだ諦められない炎が燻る瞳の先には、選ぶべき器を間違えた神の龍が立ちはだかっている。大地を巡る黄金色の巨体をうねらせ、鋭利な牙が覗く長い大きな口からは、氣の固まりのような息が絶えず吐かれ、怒りに満ちて燃える真紅の眼は一層濃かった。
立ち上がらなければ。だがどこに力が入るのかが分からない。この黄龍を倒せば全てが終わるのに、ここまできて諦められる訳がないにも関わらず。
「――………まだ……まだ…諦めない…っ…」
しかしそんな如月の、皆の思いがふと背後で紡がれる。
その振り返った先にいるのは選ばれなかったもう一つの器。傷付いた身体を叱咤し、ふらつきながらも一人立ち上がった姿はしかし弱々しく目に痛い。
「護ら…なきゃ……護らなきゃ…護らなきゃ…」
今にも崩れそうな身体を力んだ足全体で支え、俯いたままうわ言のように何度も呟いてぎゅっと拳を握る。
そして昂りと共に辺りに張り詰め蘇ってくる気迫に、周りが思わず息を飲んでいると、突然がばっと顔を上げ、ぐっと一歩踏み込んだ。
「みんなはわたしが………―――護るのっ!!」
気合一閃。龍葉は力強く叫ぶと踏み込んだ足をバネに矢のように駆け出した。
「たっちゃん!」
「龍葉…!」
制止か驚きか、思わず声を上げる仲間にも構わず、一直線に黄龍を目指して駆けて行く。
そうしてもうすぐに如月自身も追い抜くその瞬間、如月は何故か横を抜けるその風を掴もうとしていた。
「―――……」
だが声もなく伸ばした指は虚しく宙を掻き、気付いた時には既に背中は遥か前方で、龍葉は今まさに黄龍に躍りかかろうとしていた。
「龍葉―――」
粉塵に紛れ、隠れる姿を呆然と見送りながらも、如月はふと視線を落とす。そこにあった擦り傷とマメばかりで何も掴めなかった手は急に頼りなく思え、じわじわと込み上げる悔しさに唇を噛み締めた。
「龍葉………」
隠された不安に気付けなかったあの時と、同じ情けなさが甦る。答えが見付からない霧の中、それでも護りたいという気持ちだけは確かに見えていたのに、今はそれさえも満足に果たせていない。
――あんなに震えていたのに。
寛永寺で柳生宗崇と対峙した時、いつもと違い明らかに鈍かった龍葉の動きには、斬られたあの時の傷と恐怖がまだ消え去っていないのだろう怯えがよく見えた。それでも柳生も渦王須も倒せたのは、一重にもう彼女を傷付けさせまいと奮闘する仲間の力があったからだ。けれどそれでも圧倒的な黄龍には、やはりその力を受け入れられるだけの器を持つ龍葉でなければならないのだろう。だから今だって本当はまだ恐くて恐くてたまらないくせに、それでも仲間を護ると自らを奮い立たせ、龍葉はたった一人で立ち向かっていく。
そうやっていつもいつも誰かの為、ただその一念だけで傷さえもいとわないのだ。闘いも、それによって傷付くのも傷付けるのも嫌いなくせに。
「龍葉!」
「―――…!」
その時頭上で光が弾け、熱を持った旋風が吹き巡り如月は意識を引き戻される。驚いて顔を上げると、中空では二つの金色の氣がぶつかり合いせめぎあっていた。片方は鋭利な牙を剥いた黄龍と、もう片方は拳を突き出した龍葉。お互いがお互いの氣の壁を破ろうと渾身の力をぶつけ合うが、しかし分は僅かに黄龍にあり、龍葉は競り負けている。
「たっちゃんっ…!」
「龍葉…」
仲間達は今にも助けに駆けていきたそうだが、その闘いは強大過ぎて誰も介入する事が敵わず、手をこまねいて見ているしかない。こんな時、彼女はやはり特別な力を持った存在なのだと否応なく思い知らされ、頼らざるをえない己の無力さを痛感する。
だがそれ程の力を持ちながらも、やがてその消耗を知らせるかのようにパラパラと金色の欠片が降ってきた。
「これは…黄龍甲の…」
それは龍葉がはめている最強の手甲、黄龍甲から剥がれ落ちた鱗だった。如月はその欠片を拾い眉間を寄せる。
その金色の輝きはいうまでもなく、最高級の強度と芸術性を備えた、この類稀ない至宝がこうして砕け散るほど龍葉の負担は大きく、同時に消耗の激しさも示している。
しかし募る不安の中、見上げた龍葉はそれでも力強く、それどころか周りにほとばしり満ちる氣は、更に濃厚さを増し肥大していっている。
一体あの傷だらけの身体のどこにそんな力が残っているのか。
「――まさかアネキ…死ぬ気なんか…?」
思っていると劉が怪訝そうに呟き、辛そうにしながらも立ち上がると悲痛な面持ちで龍葉を見上げた。
「?!どういう事だよ!」
「――………」
その一言に敏感に反応した京一が吠えるが、劉はまるで聞こえていないかのように顔を強張らせたまま、縋るように龍葉を見上げている。
「おいっ!劉!」
そんな劉に苛立ち、今にも掴み掛かりそうな京一だが、その劉の後を受けるように御門が重々しく口を開いた。
「…《氣》とはいわば生命力です。使い果たせば文字通り力尽きる…。このままでは例え黄龍を討ち果たせたとしても龍葉さんは…」
普段は龍葉を冷たくあしらい、無下に扱う御門でさえ今はその言葉に微かな緊張を漂わせ、表情にはいつもの余裕とはほど遠い苦渋の色が滲んで見える。彼でさえそうなのだから、京一や他の者達がそれで動揺しない訳がない。そしてそれは如月も同様で、呆然と龍葉を見上げたその胸の中、不安はじわじわと確かな恐怖に変わっていった。
それは彼女が斬られたあの時の恐怖よりもずっと生々しく、まるで何かに責め立てられるように息苦しい。あの輝く笑顔を、あの誰の心も捕らえてやまない不思議な瞳をもう永遠に見れなくなると思うとただひたすらに恐かった。
あの笑顔をもう一度見たい。いや、もしかしたら彼女を泣かせたままだった自分には笑ってくれないかもしれない。だが、それでも生きていてくれなくては謝る事さえ出来なくなる。
そう、分かったのだ。もう気付いてしまった。目の前の喪失に際して否が応にも見えてしまった、失いたくないという想いの更にその先を。
失いたくない、護りたい。例え彼女が《黄龍》でなくとも、自分が《玄武》でなくとも、ただ緋勇龍葉という存在そのものを護りたい。
使命や宿星を越えた感情は邪魔なのだと、いつの間にか何でもそこに結び付け、それを言い訳に逃げていたけれど、それは最初から自分次第でしかなかったのだ。
人には理屈じゃない感じたままに溢れる感情もある。誰よりも彼女自身がそうであったように。大切なのはその中で自分自身がどう在るかだけ。
如月はようやく龍葉に対する答えを見付られたような気がした。
迷いはもう、感じない―――
「…―――龍葉!!」
溢れた想いはそのまま疲れきった身体をも押し出し、如月は勢いのまま駆け出した。
分かってしまった今、もうとてもこのまま何もせずになんていられなかった。もうこれ以上後悔を重ねたくはない。
そうしてきちんと伝えたい、龍葉に。抱き締めて、疲れを労って、謝って、そして―――
「…――――――」
だがそれは突然の出来事だった。
声にならない叫びと共に突然目の前で大きな光が弾け、腕で顔を覆うも束の間、次に激しい爆風が押し寄せてきて身体を吹き飛ばす。
龍葉を救う事に夢中になっていた如月はそのまま強かに地に背中を打ちつけられ、衝撃に小さく呻いた。
「くっ……龍葉…」
しかし、何が起こったのだと如月はすぐさま起き上がり、氣が渦巻く爆煙に目をこらす。
煙の中、あれほど巨大だった黄龍は、姿はおろか影さえも見えない。倒したのだろうか、それとも別の何かに姿を変えてしまったのだろうか。いや、それよりも龍葉は。
「――――…」
薄れていく煙の中、現れたぼんやりと細い影は、徐々に輪郭が明らかになり姿が鮮明になっていく。
いつも綺麗に手入れしてあった髪は乱れ、白い制服は焦げたり破れたりボロボロになり、下から覗く白い肌は痛々しい裂傷と火傷で見るも無惨だけれど、だが、それでもそこに彼女は立っていた。
「――――…」
その姿は見た目とは裏腹にまるで清廉な気配で。今すぐ駆けて行きたい筈なのに誰もが息を呑んで言葉を失っている。
立ってはいるけれどどこか魂が抜けているような、果たして彼女が本当に無事なのかどうかが判然としない。
だがその気配を醸し出すのも彼女なら、打ち消すのもまた彼女だった。
龍葉はゆっくりと仲間を振り返り、全てを成し遂げた穏やかな微笑みを浮かべた。
「…みんな…終わったよ…」
と同時に、広がっていた異空間が鏡のようにひび割れ、崩れ落ちるとともに元の寛永寺の境内に戻っていく。それは黄龍との決着を意味していたが、今は誰もそれには構わず、皆緊張の糸が切れたように歓喜に表情を綻ばせると龍葉へ駆け寄っていく。
けれどその時にはもう龍葉は如月に抱きすくめられていて、ぼんやりとした目で不思議そうに瞬いていた。
「………翡翠…くん…?」
「龍葉…―――」
堪えきれない愛おしさと、生きていてくれた事への安堵で震える声。どこまでも沸き上がる感動にその先の言葉さえ見失ってしまう程胸は一杯だった。
「………夢…かなぁ…?」
「――…?」
そうして言葉も見つからずただ抱き締めていると、大人しく――実際は疲れて動けないだけだろうが――腕の中に収まっていた龍葉がふと呟く。
「頑張ったご褒美…なのかなぁ………」
変わらないその緊張感の無いふにゃりとした声に如月は思わず苦笑を漏らす。
けれでその次の間、龍葉は不意にずるっと肩から崩れ、そのままぐったりと如月に身を預ける。
「?…龍葉?」
「――――…」
驚いて軽く揺すってみるが、もう龍葉は応えない。
大丈夫だろうと分かってはいるけれど、過る微かな不安に如月の瞳は揺れる。
しかしふ、と白い手が横から龍葉に差し掛けられ、暖かな気が注がれる。
「…きっと…消耗しきったんだわ…」
顔を上げるといつの間にかそこに美里がいて、その後ろには他の仲間達も龍葉を見守っている。
美里自身も治療で力を消耗し顔色が優れないが、治癒術で龍葉の傷を少しでも癒そうと力を振り絞り、如月にも優しげな笑みを向け力強く頷いた。
「でも、大丈夫よ如月君。だって龍葉ですもの」
「………」
分かってはいるが、如月は膝を着いて龍葉を横たわらせるように抱え直すと、改めて固く目を閉じたその顔を見つめる。ぴくりとも揺れない睫は本当に死んでしまったように見えるが、美里の力で仄かに色づいて来る頬と、温もりと共に微かに上下する肩は掛け替えのない命を確かに伝え、大丈夫だと本当の意味で安心させてくれる。
「ああ…そうだね…。龍葉はこんな事くらいじゃ死にやしないさ」
龍葉の乱れた前髪を撫でるようにそっと直し、如月はようやく穏やかに笑んだ。
その横顔に、いつの間にか頭を出した朝陽の一番の光がさぁっと射し込む。
長い長い闘いの果てに迎えた夜明けは何よりも輝かしく、そして暖かさに満ち溢れていた。
――次に目が覚めた時、今度こそ伝えよう。ようやく気付けたこの想いを。
だからそれまでは…、今はゆっくりとおやすみ、龍葉――――
終
…この一本書き上げるのに何ヶ月掛かっただろう…。
他にたっぷり気を取られてたとはいえ、これは酷過ぎるかもですね…。
さて、ようやく如月の想いが定まり、後はもう告白させるだけって感じですが、そうは問屋が降ろさねぇぜっていう(笑)
って言っても次の一本だけくらいですが、ちょっと如月に意地悪をば。
という訳で、多分後2本くらいでこのシリーズ、本編はようやく終了するかな、と思われます。
まぁいつになるかは分かりませんがね…(´・ω・`)
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