秋はいつも少し肌寒い龍泉寺の朝。
けれど今朝は何故か暖かい。人肌にも似た包み込むような優しい温もり。
そうだ、幼い頃兄にして貰った添い寝はこんな感じだったろうか。
涼浬は懐かしさに、夢見心地に頬を温もりの方へ擦り寄せた。
「ぅん〜……すず…り…」
そう、兄は夢の中にあってもこうしていつも宥めるように頭を軽く叩いてくれた。
――懐かしい、とても。もう、こんな事は有り得ない筈なのに…。
「――…兄…上……」
涙が頬を一筋伝い、こめかみに染みる冷たさで涼浬はゆっくりと覚醒を促される。
薄く目を開けて、もう見慣れた古い天井を仰いで、次いで朝陽を見る為に視線を横に向けた。しかしそこに差し込むのは朝陽ではなく日陰で、横たわるのは冷えた空気ではなく温かい人で。
「……龍…斗…さん…?」
ぼんやりと呟いて見知ったその顔を眺める。
何故ここにいるのだろう。何故酒の匂いをさせながら横で寝ているのだろう。何故、こんなに優しく抱き締められているのだろう。何故、何故、何故と涼浬は頭の中で繰り返す。しかし、そうして次第に脳が覚醒へ向かうにつれ、疑問はゆるゆると驚愕へ変わり、完全に目が覚めた時にはそんな疑問など遥か彼方へ飛んで行ってしまった。
「―――――?!!」
涼浬は驚きの余り龍斗を押し退けると、布団から転がり出て十分な距離を取った所で、太股に隠していた苦無を抜いて身構える。
「ぅ…う〜ん……何だぁ…?」
目一杯押された衝撃で目が覚めた龍斗は、ぼりぼりと頭を掻いてむくりと上体を起こすと、一層身構える涼浬に気付いてこちらも寝起き早々驚かされる。
「…えっ?ええ?!な、何で涼浬がいるんだ?!」
「そ、それはこちらの科白です…!何故龍斗さんが私の部屋におられるのです」
「す、涼浬の部屋?…あ…あれ…?」
龍斗は左右を見渡し、 いつもと違う部屋の様相に首を傾げる。そして涼浬の方をもう一度見ると、今度ははっと赤面した。
「す、涼浬…さん…その…お、お着物が……」
「…?」
いきなり挙動不審になる龍斗に怪訝としつつ涼浬は自身を見下ろし、そして龍斗同様かっ、と赤面する。
寝相により広くくつろいだ胸元と、慌てて逃げた為に足を剥き出しにして乱れた裾。涼浬は慌て寝間着を正すと、己の醜態に恥じ入って俯いてしまった。
「え…と……」
不謹慎にもそんな姿もまた可愛いとは思うが、この状況ではこの後どうするのが正解か分からず龍斗まで言葉を見失ってしまう。
ここはまず謝っておくべきだろうか。
「す、涼浬…その…ごめ…」
「涼浬さーん!起きてるー?」
その時龍斗の声を遮って元気な声がしたかと思うと、すらっと襖が開かれて朝の支度に来たのか桜井小鈴が顔を出した。
「この間教えてくれたお味噌汁……て、たっちゃん?!」
「…や、やぁ……」
龍斗は半分涙目で片手を上げる。想像に難くないこの後を思うと目眩を起こしそうになる。
小鈴は驚きながらもまじまじと両者を見比べると、案の定凄まじく顔をしかめ猜疑の目で龍斗を見下ろした。
「…たっちゃん…何してるの…?」
「いや…その…これは…」
「…小鈴ちゃん?どうかしたの?」
自分でも何をしてるか分からない龍斗が返答に詰まっていると、更に間の悪い事に藍までやって来てしまった。
「藍!実はたっちゃんが…」
「!待て小鈴!誤解だっ…!」
龍斗は慌てて制止を掛けるが、小鈴は聞かず藍に現状を訴えてしまう。
「…まさか…龍斗がそんな…」
襖越しに藍の困惑した声が聞こえるが、そう言って顔を覗かせた藍の目には明らかに憐れな生物を見るような、同情の色が浮かんでいた。
「やめろ藍!そんな目で俺を見るなっ!誤解だって言ってるだろう!」
「何が誤解なのさ!涼浬さんあんなに怖がっちゃってるじゃないかっ!女の子の寝込み襲うなんて最低だね!」
「だからそれが誤解なんだってば!俺もなんでここにいるのか分からないんだよ!」
「朝っぱらからうるさいねっ!何騒いでんだい!」
龍斗が必死に弁解しようとすると、騒ぎを聞き付けた時諏佐までが凄い剣幕でやって来てしまった。そして時諏佐も龍斗と涼浬を見比べると、すっ、と冷たい視線で布団に座り込んだままの龍斗を見下ろした。
「…龍斗、あんた…」
「せ、先生…違う……」
女三人に取り囲まれ、不審な目で見下される状況に龍斗はもはや蛇に睨まれた蛙のように萎縮するしかない。
唯一頼みの綱の涼浬も先程から俯いたままで微動だにしないし、例え動けても龍斗同様この状況の真相を説明する事は出来ないだろうと思われた。
まさに絶体絶命の状況に、龍斗はもはや乾いた笑いしか出てこない。こんな事ならいっそ手を出していなかった事が勿体ないとさえ思えた。いや、そもそも本当に手を出していないのかさえも分からないが。
「お、俺…何も…してないよな…?」
せめて心の救いを求めて呟いてみるが当然返事はなく、龍斗の身柄はそのまま御堂の中へと一人移された。
「腹…減った……」
広くはないが狭くもない御堂で一人仏像を磨きながら龍斗は溜息を吐く。先程から空腹を訴える腹の虫が収まらず、それが虚しさに拍車を掛け雑巾を持つ手の力を奪っていく。
あの後、時諏佐は龍斗に三日間の朝餉抜きと境内の掃除を言い渡し、有無を言わせずここへ追いやった。今頃は皆で楽しく朝餉を食べているのだろうかと思うとやたら恨めしい。
「たくっ…少しくらいこっちの言い分も聞いてくれたって良いだろ。みんなして人を一方的に悪人にしやがって…。大体俺が涼浬にそんなひどい事する訳ないだろうが」
ぶつぶつ言いながらも段々馬鹿らしくなってきた龍斗は、雑巾を投げ出すとどかっと胡座をかいて腕を組んだ。
しかし苛立ちながらも、今朝の自分の立場に他の誰かがいたとしたらどうだろう、とふと考えてしまう。例えば京梧などが涼浬の横で寝ているのを発見したとしたら。
「…まず間違いなく大鳳くらいは喰らわせるよな…」
そしてそれ以上なら黄龍を放つ事も辞さないだろう。それもきっと問答無用で。
「…………ちゃんとやろう……」
改めて非を自覚した龍斗はすごすごと雑巾を拾うと、再び仏像を磨き始めた。
空腹を堪え掃除を再開して暫し、床の雑巾掛けに移ったところで自分が出す以外の木が軋む音がして、龍斗は顔を上げた。
「あ…涼浬…」
「龍斗さん…」
まだ朝陽の差し込むお堂の入口に立っていたのは涼浬だった。龍斗は咄嗟に笑顔を作ると、雑巾掛けを止めて正座する。何か追い討ちでも掛けに来たのだろうかと嫌な汗が背中を伝った。
「ど、どうした?まだ何かあったか?」
「あ…いえ、あの…」
涼浬は躊躇うように視線をさ迷わせると、手にしていたお盆を戸の脇に置いた。
「これ…よかったら食べて下さい…」
そう言って被せていた布巾を取ると、そこには笹の葉に乗せられた握り飯三つと沢庵があった。
「あ…」
龍斗は思わず身を乗り出して握り飯を見る。同時に食事を諦めて成りを潜めていた腹の虫も再び鳴り出した。
「え、食って…いいの?」
「はい。私が作ったので味の保証は出来ませんが…」
「でも…そんな事したら涼浬が怒られるんじゃないか?一応朝飯抜きが罰な訳だし…」
食べたいが涼浬を思うと手が出ない龍斗に涼浬は首を振る。
「いえ、あの、蓬莱寺さんから昨夜の事お聞きしました…」
「京梧?」
「はい。昨夜龍斗さんは与助殿と呑みに行かれて…」
「…あーっ!そうだ!与助だ!」
涼浬の言で龍斗はやっと昨夜の事を思い出した。思えば今の今まで今朝の反芻ばかりで、その原因となった事柄を考えた事が無かった。それ程切羽詰まっていた。
「そうだそうだ、与助と呑みに行って奴が調子乗って次々酒追加して…!」
そして与助が涼浬が好みだのなんだの言い出したものだから切れて、龍泉寺に戻った後酔った勢いで涼浬の部屋まで行って、涼浬の姿を見たら安心してそのまま寝てしまって。
「思い…出した…」
龍斗は肩を落として正座を崩すと、前髪を掻き上げながら涼浬を見遣った。
「安心しろ涼浬…。本当に何もしてないから…」
「龍斗さん…」
「ごめんな。やっぱり俺が悪かったな。その握り飯いいから涼浬の弁当にしろよ。気に掛けてくれてありがとうな」
涼浬が気に病まないよう努めて笑うと、涼浬は困ったように眉間を寄せ、その場に正座すると俯きがちにまた一つ首を振った。
「…謝るべきはこちらの方です…。私が取り乱したりしなければ、龍斗さんがあらぬ疑いを掛けられる事も無かったのですから…」
「いや、でも元はといえば俺が…。それにあの状況なら誰でも驚くのが普通だろう?」
「いいえ、私は忍です…。いついかなる時も平静を保ち、例え寝込みであっても気配に聡くあらねばなりません」
「涼浬…」
「確かに昨日は疲れていました。しかし幾ら危険の少ない龍泉寺といえど、忍の心得を失念すべきでは無かった…。…私が未熟なばかりに龍斗さんにご迷惑を…。本当に、申し訳ありません…」
どう考えても非があるのは龍斗だろうに、そんな風に自分を卑下し謝られ、更に龍斗にしてみれば心苦しい涼浬を縛る《忍》の一文字。
龍斗は思わず涼浬の頬に手を伸ばそうとするが、しかし雑巾を触った手だと気付き思い止まってしまう。例えごしごしと着物で拭いても涼浬の綺麗な肌に触れるのは忍びなく、龍斗は苦笑すると代わりに額だけを涼浬の下がった頭に寄せた。
「―――龍斗さん…?」
涼浬は驚いたように大きく開いた目だけで見上げてくる。
「涼浬…そんな風に気にしないでくれ。忍だとか未熟だとか、そんな事は関係ないんだ。酔っ払った俺が涼浬を見て安心したように、涼浬もこの龍泉寺に…仲間がいるこの場所にただ心安くなっているだけだ」
「…―――」
額を離し、龍斗は今度こそ心からの笑みを浮かべ、戸惑う涼浬の瞳を見つめて、ぽんと頭を叩く。
なるべく気に病まないように、力を抜くように。
「きっと、な…」
そして、追い込まないように少しの逃げ道も。
「………」
涼浬は微かに頬を染めると、きゅっと唇を引き結んで視線を伏せがちに顔を背け、そうなのだろうか、と龍斗の言葉に惑う心を見つめる。
そうなのだろうか。安心してしまっていたのだろうか。いつも暖かく迎えてくれる人達がいるこの場所に。けれど、それでも注意は怠るべきではない。この場所を心安く思うなら、尚更それを脅かす存在の為に神経を尖らせなければならないのではないか。
安らぎの為に心を削る。矛盾のようでありながら必要だとも思う行為。
「分かりません…。それは…私にはまだ…難し過ぎて…」
その手の打ち所はどこなのか。
涼浬はもどかしさに下唇を噛む。
それでも置かれた龍斗の手は優しく頭を撫でて。
「うん、それでもいいんだ。少しづつでいい、忍の涼浬じゃなくて、ただの涼浬自身が感じたままに感じていってくれれば、俺はそれで嬉しいから。…それに、まだって事はこれから分かるかもしれないって事だろ?」
「っ……」
そんな温もりに安らぎを感じてしまうのは、いつもそうして優しい笑みを向けてくれる龍斗相手だからだろうか。
「龍斗さん…」
やはり分からないが、確かに感じてはいなかったか。今朝の優しい温もりにも、兄と似た懐かしさ、それに勝るとも劣らない心地良さを。
「龍斗さん…私は……」
「…あっ!」
涼浬が何事か言おうとした時、龍斗は間抜けな声を出してぱっと手を離す。
「…?」
出鼻を挫かれたようで怪訝とする涼浬に構わず、龍斗はしまった、と自身の手をねめつける。
「触ってしまった…」
「は?」
「雑巾持った手で涼浬を…」
「……はぁ…?」
龍斗の妙な気遣いに涼浬は一瞬ぽかんとする。
「ごめんっ!俺とした事がついうっかり!」
「い、いえ、あの、そんな事、お気になさらず…」
雑巾如きで何をそんなに、と思わせる程少々大袈裟な反応を見せる龍斗に涼浬まで狼狽してしまう。
そして龍斗は残念そうに己の手と涼浬を交互に見ると、一つ溜息を吐いて苦笑した。
「…ま、まぁとにかく、今日は悪かった。以後呑み過ぎには気を付けます」
龍斗は胡座のまま膝に両手を着くと、ぺこりと頭を下げる。
涼浬も何か言いたい事があった筈だが、そんな妙な所で几帳面な龍斗が何やら可笑しく、口許に手を当てるとふふ、と笑った。
「本当に、貴方には敵いません」
「へ?」
彼は何事にも柔軟に対応出来るだけの確固とした我を持っている。けれど決してそれを他者に押し付けたりはしない。いつだって分からない事を責めるのでなく、待ってくれる。分かるようになるまで根気よく何度でも教えてくれる。だから分かりたいと思う。
いつか、分かりたい。
可笑しくて、心地好くて、くすくすと笑い続ける涼浬に龍斗はひたすら首を傾げるしかないが、珍しいその仕種は自分の想いが負担にならなかった事の証左にも思えて、龍斗は嬉しさに満面の笑みを浮かべると、涼浬の控え目だが楽しげな笑みを見守った。
「あ、そうでした、おむすび。時諏佐殿にちゃんと了解は得ていますから。大丈夫、皆さん最初から龍斗さんの事は信じてらっしゃいましたよ」
そんなおまけも嬉しい、秋のある朝の出来事だった。
終
やっとちょっと格好良い龍斗を書けた気がする。
この龍斗は間違いなく剣風女主龍葉のご先祖様だと思うんさ。
ところで涼浬のデレた時の破壊力は個人的に凄まじいと思ってるんですが、陽ディスクの時期やとどこ迄デレていいんだろうね。書く時ちょっと悩む。
まぁわたくしはデレてもデレんでも、涼浬が出現するだけで超禿萌えですが。
[5回]
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